宗派 真言宗豊山派
本尊 阿弥陀如来
285-0818 佐倉市寺崎2960
佐倉市寺崎の密蔵院 薬師堂にお邪魔しました。
— すってんぱれ! (@suttempare) 2021年1月16日
建築時期は龍や唐獅子等の彫刻から、宝永年間頃と推察されるそうです。
境内の力石は若者の体力増強・鍛錬用に使われ、重さは約100kgとの事。
スゲ━━ヽ(゚Д゚)ノ━━!!!!
道が狭く、車の運転は苦労しますが、見晴らしが良く素敵な場所でした。 pic.twitter.com/wTHyHAeHAa
ここは確か寺崎城跡と云われている場所ですよね。いつかお参りしたいと思いながらなかなか行けずにおります。
— makoto-jin-rei@Rebel1100DCT【納車待ち】 (@makotojinrei) 2021年1月16日
makoto-jin-rei@さん、お疲れ様です。
— すってんぱれ! (@suttempare) 2021年1月16日
おっしゃる通りです。密蔵院さんの駐車場に車を停めさせて頂き、お参りを済ませてから寺崎城址に向かいました。
見晴らしが良い素敵な場所だと思います。水田が綺麗な季節に是非ともお邪魔してみたいと思います。
(o´・ω・)´-ω-)ウン
すってんぱれ!さんのツイートで、
いつかお参りしようと思っていた、
城跡に建つ寺院を思い出しました。
・・・てな訳で、
そばよし順天堂大学前店でランチの後、
佐倉市寺崎の寺崎城の城跡に建つ、
日光山・密蔵院・光明寺へ、
PCX150でやって来ました。
享保年間(1716-1736)に建立された、
真言宗豊山派の寺院です。
本堂下の墓地の前に、
弘法大師空海を祀る、
大師堂がありました。
四国第十四番常楽寺の、
御詠歌ありましたので、
この辺りにも四国霊場の写しの、
八十八ヶ所があるのでしょう。
本堂の右隣に庫裏があり、
その庭に鐘楼らしき跡がありますが、
柱と屋根はなくなっていて、
梵鐘が直に置かれていました。
本堂前には左右に、
不動明王立像と、
弘法大師空海巡錫の銅像があります。
お参りして本堂内を伺うと、
密壇の奥にご本尊の、
阿弥陀如来を拝せました。
本堂西の丘の上に、
薬師如来を祀る薬師堂があります。
三間四面の入母屋造ですが、
棟札や記録がないので、
建立時期が特定出来ないそうですが、
建築的な特徴から、
宝永年間(1704-1711)頃のものと、
推定されているようです。
近く令和の大修理、
修復が予定されているようで、
その事業の計画と寄付を募る、
案内が貼られていました。
入母屋は元々は茅葺だったようですが、
残念なことにトタン波板が張られていました。
おそらく朱塗りの塗料も屋根のペンキで、
時代考証に合ったものではないでしょう。
薬師堂の扁額は、
「瑠璃殿」ではなく、
「琉璃殿」の表記と思われます。
本尊の薬師如来は秘仏のようで、
御簾の前に小さなお前立があり、
左右に日光・月光菩薩らしき、
金色の立像が脇侍であります。
薬師堂の左脇に、
力石とまた別の大師堂があります。
さて境内の西端には、
また小高い丘があります。
丘の右下には稲荷神を祀った、
小祠がありますが、
この丘は寺崎城の時代には、
物見台だったようデスが、
寺院となり神仏習合の時代に、
富士塚となったようです。
丘の上の左には
小御岳石尊大権現こと、
天狗を祀る小御嶽神社と、
富士山浅間大神こと、
浅間神社の小祠があり、
富士山講の土産か、
富士山の溶岩らしき、
岩が置かれています。
この右に寺崎城の石碑があります。
寺崎城の詳細は不明ですが、
千葉胤直の嫡子、
胤将が築いたと伝わる城で、
胤将の子の則胤の時に、
胤直の弟の馬加康胤が、
千葉氏宗家乗取りを謀り、
この城を攻撃して、
則胤は武蔵国に逃れます。
康胤は千葉氏宗家を名乗り、
本佐倉城を築いて居城した後、
嫡子・胤持を寺崎城主にしますが、
後に胤持も本佐倉城に移り、
その際に廃城となります。*1
そういえば本佐倉城も、
このブログでは一度も載せていませんね。
その内また訪問して載せます。
この富士塚からの眺望がまた絶景。
野焼きの火が高く上がって、
ワタシはびっくりして、
思わずツイートしましたが、
後で帰り道に下道を走っていると、
田んぼのそこいら中に、
大きな火が上がっていました。
野焼き?やばくね?? pic.twitter.com/OSxIm4MDq4
— makoto-jin-rei@Rebel1100DCT【納車待ち】 (@makotojinrei) 2021年1月17日
いつもの風景ですが。#田舎暮らし
— masa(下総の國) (@kuisugimasa) 2021年1月18日
メチャクチャ火が高くなって消防車が来てましたよ。 pic.twitter.com/yh9NaKRBX7
— makoto-jin-rei@Rebel1100DCT【納車待ち】 (@makotojinrei) 2021年1月18日
現本堂の北西、
薬師堂の北東の鬼門に、
胤将が築城の際に、
猪鼻城から勧請したという、
神明社があります。
密蔵院のお参りを終え、いざ寺崎城址へ。
— すってんぱれ! (@suttempare) 2021年1月16日
小高い丘を上ると、見事な眺望が眼下に広がります。
石碑の横から鹿島川大橋・臼井方面を臨む事が出来ます。
富士山浅間大神の先には千葉東工業用水道羽鳥調圧塔が。
中央を左上へ伸びる土手の様な箇所は総武本線旧線跡です。#寺崎城址 #総武本線旧線跡 pic.twitter.com/NmP019PBZa
ブログを書いてから疑問に思った。寺崎城は現在の密蔵院を中心に北は北六所神社、南は南六所神社付近まで全体に広がる平山城だったようだが、密蔵院が建立されたのは江戸時代。なんで地名が寺崎なんだろう。密蔵院のすぐ下を通っていたという総武本線旧線も興味深い。https://t.co/RZV6nzymZs
— makoto-jin-rei@Rebel1100DCT【納車待ち】 (@makotojinrei) 2021年1月17日
寺崎の地名は「ひら(平)」「さき(山の先)」の転訛で、台地の先の土が崩れいるという意味らしいというが、私は鎌倉期頃に密蔵院の前身にあたる寺院があったのではないかと思う。
— makoto-jin-rei@Rebel1100DCT【納車待ち】 (@makotojinrei) 2021年1月17日
千葉氏の歴史は不明な点が多すぎる。おそらく徳川の治世に都合の悪いことを全て削除した結果だろう。
— makoto-jin-rei@Rebel1100DCT【納車待ち】 (@makotojinrei) 2021年1月17日