【御府内第六十八番】大栄山 金剛神院 永代寺

永代寺




宗派 高野山真言宗
本尊 歓喜天
札所 大東京百観音霊場第三十七番(←現在不明な霊場です。)
    江戸六地蔵第六番旧札所(←地蔵は現存しません)
135-0047 江東区富岡1-15-1



深川不動堂の時、
前を通りました。深川不動堂の参道にあることから、勝手に深川不動堂
塔頭(子院)であると思ってました。だがそれは大変失礼なことだったんです。



ガイドブックの予習で不思議な点が二点。
宗派が「高野山」(成田山なら智山派)。
本尊が「歓喜天」の珍しさ。です。



とにかくお参りしてみましょう。
札所で、写経と朱印帖を渡すと、写経は自分で供えろって言われました。
初めてです。どっちに頭を向ければいいんでしょ!?。とりあえず、
仏花と同じく、仏様に向けてではなくこちらから読める向きに供えました。
「近頃急にあんさんみたいなスーツ姿の若いお人が多くなったんだけど、
いったいなんでだろうね」って聞かれました。
「さぁ、よく分かりませんが私はインターネットにお参りの日記を書いてます。」
って答えると、「ならこれ使ってよ」って大変詳しい縁起資料を頂きました。
お遍ラーズ・・・知らぬ間に増殖しているのでしょうか。
私が把握している数名のお遍ラーズ部員は、まだこちらに行ってないはずです・・・。


縁起資料、門前で熟読してよく分かりました。
そもそも富岡八幡宮にはその別当として、
いや、ほぼ同一として永代寺が建っていました。
現在の八幡宮から、深川不動堂、深川公園一帯の広大な土地は、
敷地に境なく西が永代寺、東が八幡宮って感じだったんです。
永代寺は隆盛を極め「関東五ヶ寺随一」とよばれるほどだったんです。



ですから、成田山の出開帳もこちらで行われていたのは当然です。
江戸六地蔵は江戸の入り口玄関の代表的な寺院におかれたものですから、
千葉からの玄関口はこちらに他なりません。



しかし、神仏習合の代表的な寺院であったことが、その悲劇につながりました。
廃仏毀釈の矢面に立たされ、明治維新を機に廃寺となってしまいます。



深川不動堂成田山東京別院としその地に独立しますが、
永代寺は明治二十九年にやっと塔頭吉祥院が改称するといった形で復活します。
それが、今日お参りしたこちらのお寺なんです。



両国の回向院の阿弥陀如来像も、堀の内の真盛寺の観音像も、
元々は永代寺のものだったとか・・・。
結局塔頭吉祥院歓喜天尊が今のご本尊になってしまったんですね。


長年の疑問。門前仲町の「門前」は
「富岡八幡」か「深川不動」のどっちの「門前」なのか??
がやっと分かりました。「富岡八幡=旧永代寺」の「門前」だったんです。



旧永代寺の跡地、深川公園には、渋沢栄一揮毫の日露戦争の巨大な慰霊碑の前に、
小さな「富岡八幡宮別当永代寺跡」の碑がありました。


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