徳川家康は熱心な浄土宗の信者でした。
ただし、彼のブレーンであり、
彼の死後も彼を大権現という神に祀り上げた「天海」は
天台宗の僧だったんです。
そんな訳で徳川幕府は、
家康が最初に江戸にきたときに、
菩提寺と定めた浄土宗の芝の増上寺と、
天海が江戸の鬼門に、
東の比叡山となれと東叡山と名づけた、
天台宗の上野の寛永寺を
W菩提寺としましたので毎回毎回幕府の要人が亡くなる度に、
やれ葬儀はこっちだ、
やれ墓地はあっちだと、
両寺で争っていたようです。
将軍の墓地だけで言えば、結果は、
①家康、③家光が日光東照宮。
④家綱、⑤綱吉、⑧吉宗、⑩家治、⑪家斉、⑬家定が寛永寺。
②秀忠、⑥家宣、⑦家継、⑨家重、⑫家慶、⑭家茂が増上寺。
⑮慶喜が谷中墓地。と、数の上では全くのイーブンなんですね。
故人がどの宗派を信じていようが関係なかったようで
霊雲寺をつくらせた綱吉も寛永寺、
護国寺をつくらせた桂昌院も増上寺に葬られました。
増上寺の将軍家の墓地はは空襲で燃えてしまったので
戦後に一度掘り起こされて一箇所に改葬されています。
その時の改葬の模様は、
- 作者:尚, 鈴木
- 発売日: 1985/12/01
- メディア: ハードカバー
秀忠は埋葬直後に内部の大石が崩れて300年間ペッタンコだったとか・・・。
墓を開けてみたら、遺体なーいっ!!って大騒ぎ。
取り除いた蓋の石に張り付いていたようで・・・。
シュウマイ弁当じゃなんんだから・・・。もう。
改葬された墓地。
通常は非公開ですが年に一度四月の初めにに特別公開しています。
上野の寛永寺の徳川家の墓地は、戦災にも遭わずに残りますが、
完全に非公開。
ただし墓地の入り口の絢爛豪華な門だけでも見る価値はあります。
慶喜だけは将軍として亡くなったわけではないのでその近くの谷中霊園で、
普通にお参りできます。