西郷隆盛像

西郷隆盛

110-0007 台東区上野公園内


先日の楠木正成像の時にも触れた、
東京三大銅像の一つ。
上野、いや東京のシンボルともいえる西郷隆盛像。
西郷どんの話をしたら、一晩中でも語りつくしてしまう、
幕末ヲタな私ですが、
ここではこの銅像についてだけを書くつもりです。




まずこの銅像はいつ、なぜ建ったのか。
西郷の死の十二年後の明治二十二年(1889)、
西郷贔屓の明治天皇は、特別にその賊名を解き、
西郷は正三位に復します。
これに感動した旧友の吉井友実(幸輔)が中心となって、
御下賜金と有志二万五千人の寄付により建立を計画。
楠公像と同じ、高村光雲により、
明治二十六年(1893)に起工。四年を経て、
明治三十年(1897)に竣工されます。
この「除幕式」が日本の「除幕式」の元祖という、
話も聞きますが史実かどうかかは定かではありません。




さてここで問題になったのが、
この銅像の顔と格好。




まず、西郷どんは写真が嫌いでした。
この銅像でも参考にしたとおもわれる
有名な西郷どん肖像画
あれキヨソネというイタリア人版画家が、
西郷の死の一年後に、
弟の西郷従道と従弟の大山巌を混ぜ合わせて書いた想像画なんです。
事実、西郷はその二人を合わせた顔に似ていたということですが、
あの版画はまったく似ていないという証言もあります。




それから、あの姿・格好。
後の鹿児島には西郷どんが軍服を着た銅像が建ちます。
しかしこの時代の東京に西郷どんに軍事色を持たせるわけにはいきません。
そういう条件の中で高村光雲は、西郷どんの趣味である兎狩りに目をつけ、
薩摩犬(ツンという名前だそうです。ツンは光雲作ではないそうです。)を連れ、
「犬の散歩がてらにワナの様子を確認しに近所の山を歩く。」
・・・格好としてこの像を作りました。
でもそれがそもそも間違い。
西郷どんの兎狩りは暢気な趣味なんかではなくて、
軍事訓練の一環としていたものなんですね。
だからあんなツンツルテンの浴衣なはずはないのです。



日本初の除幕式に招待された奥様、西郷糸子さん。
ジジャーンと幕が開けば、
そこにはご主人には似ても似つかぬツンツルテンの浴衣姿のおとっつぁん。
顔はともあれ、旦那さんのだらしない格好は奥さんのせいですもんねぇ。
やどんしはそげなお人じゃごわはんじゃした。」
(うちのひとはこんな人じゃありませんでした。)、
浴衣で散歩はしもさんど。」
(浴衣で散歩なんかしません。)って怒り心頭。
薩摩の女を怒らせたら大変です。(ほんと大変なんですよぅ。)
ちなみに鹿児島弁はうちの義母訳。


ただ「憤慨して二度と上京しなかった。」とよく書かれていますが、
あれは嘘です。
明治十二年(1879)に勅命で上京してからは、
東京で暮らしていて、東京で亡くなりますから。
(お墓は嫡男・西郷寅之助とともに青山霊園にあります。)




吉井幸輔という人がもうちょっと違う人だったら、
このような銅像にはならなかったのかもしれません。
この吉井さん、物事にあまりこだわらなかった人のようなんです。
明治二年(1869)に西郷どんは最初に「正三位」を贈られたんですが、
西郷どんはいつも通称の「吉之助」ばかり名乗っているんで、
誰もその本名が分からない。
そこで友達のこの吉井に聞いて「隆盛」と記したんですが、
これ西郷どんのお父さんの本名・・・。
おいおい吉井さん、嘘教えちゃだめだーよー。
西郷どんの本当の本名は「隆永」だったんです。
その後は「よか、よか。」って「隆盛」になっちゃったんですが、
間違えるほうも、間違えられるほうも、器がでかいです。




この人が発起人ですから、
少々顔が似ていまいが、少々変な格好をしていようが、
よか、よか。」ってなっちゃったんでしょうか。
吉井さんは起工前の明治二十四年(1891)に亡くなっていますが。



私、個人的にはこの西郷どん、嫌いじゃないです。
「器のでかい男」って感じ、しますから。


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