洲粼神社 (元弁天社)

洲粼神社

祭神 市杵島比売命(イチキシマヒメノミコト)
135-0042 江東区木場6-13-13(←地図)




こちらは池波作品によく「洲粼弁天社」という名で登場します。
洲崎神社といえば、安房一ノ宮のものをさすのですが、
こちらはそちらではなく、安芸の宮島厳島神社の御分霊だそうです。
ここもまたまた五代将軍綱吉のおっかさん桂昌院が係わります。
元禄十三年(1700)護持院の隆光大僧正によって、
弘法大師空海作と伝わる弁天さまと、お稲荷さんを祀ったものが
洲粼弁天社と称されます。明治の神仏分離以降現在の名になりました。




こちらの境内には興味深い「波除碑」というものがあります。
寛政三年(1791)高潮(津波)によって深川洲崎一帯の家屋が損壊。
死者・行方不明者が多数が発生したため、
幕府は洲崎弁天社から西を買い上げて境界にあたる、
二ヶ所に波除碑を建て、
それより海側に家を作ることを禁止したそうです。
「これより海側は津波の危険があるんで家を建てちゃあかん。」
と、いうもの。
現在ではここから海は遠い先です・・・。
・・・幕府の警告はまったく無視なんですね。
波除碑1   
こちらの境内の碑も砂岩だったようで、
関東大震災と、空襲でご覧の有様。
鉄筋を付けて保護していますが、
まったく字は読めません。
もう一つの碑は、
江東区牡丹3-33(←地図)にあるんですが、
こちらも半分になっちゃっています・・・。
波除碑2   
東京湾津波が来るとなるとこれ、
滅多にあることじゃないんでしょうけど、
実際、300年前にここまで津波が来たんですから、
我々現代人、ちょっと自然をナメちゃいませんでしょうか。
波除碑の二点を結ぶ   




鎌倉の大仏は、あんなに山の上にあるんですが、
あの阿弥陀様の肩には、今でも津波の傷跡があるんですよ・・・。




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