墓と散骨


osyouさんのブログ「散骨・・・」を読ませて頂きました。
私も散骨はあまりいいものではないと思います。




そもそもインドでは、
ヒンズー(バラモン)教の影響から、あまり遺体には執着しないそうです。
ガンジスの河原で荼毘にふし、そのまま流しちゃう。
母なるガンジスに帰るという考え方ですね。
日本の火葬と比べると、結構いい加減なようで、
ヒンズー教徒が沐浴する川面には、
遺体の一部がプカプカ流れているようです。



そんなインドで仏教を開いたお釈迦様は、
仏像等の偶像崇拝を禁止していたようなので、
お釈迦様が入滅すると、
そのお骨(=仏舎利)が唯一の具体的な崇拝の対象となり、
実際、信者の間で取り合いとなって、
その分配にもかなりモメます。*1



でも、お骨を大事にするという風習は、
そもそも、ここから出たものだと思いますから、
お骨を大事にするというのは、いわば、
仏教の考え方そのものであるともいえないこともありません。





でもね。。。。
私、「掃苔」が好きで、お墓が大好きなんですが、
実際、墓なんて、ぶっちゃけ、
故人本人の為のものではないんですよ。
故人に縁のある「生き残った人達」のものであって、
その「感謝の祈り」の方向であるだけなんです。
ですから、よほどの偉人でもないかぎり、
その「縁のある人」が死に絶えれば、
その墓の存在価値はなくなりますし、
実際ほとんどの墓は消滅しています。
東京に100年以上前に亡くなった人の墓が、
何基残っているでしょうか。
無縁仏となって一箇所に墓石がまとめられてば、
まだいいほうです。


お墓に通っていて、何度か改葬している光景を見かけました。
江戸時代の土葬から骨を取り出して、骨壷にいれたものは、
今でもしっかり骨が残っていますが、
今の火葬場で焼いたお骨は、
お墓の状況にもよるでしょうが、
数十年でほとんど泥水のようになっていたり、
お骨が固形でなくなっていることが多いいいます。
日本は湿気が多いので、乾燥しているお骨が吸水していまい、
お骨自体が解けてなくなっちゃうんですって。



お墓に入れたって、
嫌でもいつかは「地球の懐に還る」んですから、
なにも「散骨」で急ぐことはないんです。
せめて、「縁のある人」が一人でもいる限り、
手を合わせる「感謝の祈り」の方向として、
「お墓」はきちんとあるべきです。



話は変わりますが、
親鸞は「私が死んだら賀茂川に捨てて魚の餌にしてくれ」と言ったそうです。
ご本人は本当にそれでいいと思っていらしたのでしょうね。
でもあれだけの人ですから、当然周りはそうさせません。



それも現在、本願寺派(西本願寺)と、
大谷派(東本願寺)にそれぞれ、
東山に別のお墓があるなんて、
まったく皮肉なもんです。
信者とすれば宗派は違えど、
それぞれやはり親鸞への「感謝の祈り」の方向がほしいでしょうから、
当然といえば当然ですけどね。



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*1:世界中の仏塔にある仏舎利を集めると象5頭分の骨になるらしいです・・・。