於岩稲荷田宮神社

於岩稲荷田宮神社

祭神 豊受比売大神・田宮於岩命
104-0033 中央区新川2-25-13



東海道四谷怪談で有名なお岩さん。
そのお岩さんを祀るこちら於岩稲荷田宮神社です。
「あれ、何で四谷じゃないのーっ??。」
「だって四谷に於岩稲荷あるじゃんか??。」
との質問。当然です。
勿論、四谷にもあります。
【御府内第四十四番】顕性院さんの時に紹介しました。
一応現在はこちらが本社で、
四谷が旧社のようですが、
そりゃあーた、四谷怪談だもの、
こちらはどうしたって、
「もう一つの」於岩稲荷さんと呼ばれています。
「もう一つの」は「夕べ眠れずに泣いていた」、
「土曜日」だけではないんです。(←古い!!。浜省です。)




「祟り」だの「呪い」だの、
幽霊の話ですから、
いろいろ言われていますが、
東海道四谷怪談は、鶴屋南北という、
そもそも歌舞伎作家の書いたフィクションです。
そもそも実在した田宮お岩さんの説明をします。




江戸初期のこと。
四谷左門町に住む、
三十俵三人扶持(十六石)の御家人
田宮又左衛門の娘に生れたお岩さん。
婿の伊右衛門とも仲むつまじく、
人も羨む似合いの夫婦でした。
でもたった十六石の薄給ですから、
生活は火の車。
お岩は家計を支えるため商家に奉公に出ます。
幕末の旗本や御家人の身分が、
金で取引される時代ではありません。
武家の娘であり、妻が、商家に奉公に出るのは、
相当の覚悟があったと思います。
しかし、この奉公のおかげかどうか、
田宮家は見事に復興。*1
お岩さんが日頃から信仰していた、
田宮家敷地内の屋敷社のご利益だという噂が、
たちまちに広まります。
お岩さんは36歳で亡くなってしまいますが、
お岩さんの命を祀る祠を造ると、
この屋敷社と祠にお参りしたいという人が絶えず、
ついには田宮家は参拝を許可します。
これが四谷にある於岩稲荷田宮神社の始まりです。




ここから時は過ぎ、
お岩さんの死後二百年の江戸後期。
鶴屋南北がその歌舞伎の中の幽霊話に、
田宮お岩さんの名を勝手に拝借しました。
これが、東海道四谷怪談
南北も歌舞伎役者達も、幸せな人生過ごした、
お岩さんを怨霊の主人公にしたことに、
罪の意識があったのかもしれません。
また怪談ですから舞台道具も複雑だったであろうし、
照明も暗くて事故も多かったのでしょう。
これがお岩さんの怨霊になっちゃったんだと思います。
歌舞伎の出演者は必ず上演前に四谷にお参りするようになったんです。




明治十二年(1879)、四谷左門町の社殿が火事で消失。
すでに移転していた田沼家の敷地内に神社は移転します。
それが今日紹介するこちらの神社なんです。
その後こちらも、戦災で消失したんですが、
戦後に、こちらも、四谷も再建したため、
現在は二つの於岩稲荷田宮神社があるという訳なんです。




はぁ〜、長かった・・・。




まぁ、ともかく、
今日、新川の新規のお客さんに訪問したもんで、
ちょっとお参りしてみようと初めて立ち寄ってみました。
すぐ裏には昔、うちの会社の事業所があったんで、
私新入社員の頃、研修に来てました。
中央区新川という場所は、
近代的なビルと下町が混在する変わった場所です。




ちょっと、異質な雰囲気をもった神社でした。
私はどうも歓迎されていないようです。
空気が重く、前に進みづらい圧力が私を包みました。
社殿正中から突然、スズメバチが私の胸元に一直線。
一度、何ヶ所もスズメバチに刺されている私ですから、
今度刺されると命が危ないんですが、
このスズメバチは、充分私が刺せる位置にありながら、
私をかすめて飛び去りました。
お賽銭を置いて、一礼して、
逃げるように退散しました。



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*1:私が想像するに奉公とは関係なくご主人が出世したんだと思います。