習雲山 瑠璃光院 薬師寺 【吉橋大師第八十八番(1)】

薬師寺

本尊 福壽薬師如来
宗派 真言宗豊山派
275-0011 習志野市大久保1-17-14




三連休最終日は完全に休息日。
夕方に近所のブックオフに行く途中、
商店街にあるいつも見慣れたお寺です。
何度もお参りしているこちらのお寺の表札をみて、
ふと疑問が一つ湧きました。
ほぇ、「雲山 薬師寺」?。
雲山?。」「志野だからかい??。」




習志野という地名は古いものではありません。
明治天皇命名した地名です。
それについては以前に一度書きました。




→ 習志野ってどこ??



このお寺、その縁起をみてみれば、
その伝説は関ヶ原の戦いまで遡ります。




関ヶ原の戦い、西軍についた河内国郷士、市角頼母。
続く、大坂冬の陣大坂夏の陣も、豊臣側について破れ、
一族郎党、命からがらこの地に逃れ、
帰農して豪農となったそうです。
その時代はまだ勿論、この辺りは習志野ヶ原ではなく、
小金ヶ原・弁天原の大窪と呼ばれていました。
江戸時代、頼母の長男はこの地の名主職に就き、
その名主屋敷の下屋敷に持仏の薬師如来像を祀りました。
この時点では、名主の下屋敷の薬師堂であっただけで、
お寺ではなかったんですね。
明治になって軍都習志野となり、この薬師堂前の、
大久保商店街は、一躍、習志野の中心地区となった訳ですが、
ここに昭和十七年(1942)、
英霊奉安の為に一寺を建立することになり、
この薬師堂が、薬師寺になったという訳なんです。


大師堂   

以前に紹介した吉橋大師講の、
二つある結願札所の内の一つでもあり、
関東九十一薬師霊場の第八十番の札所だそうなんですが、
これはいつの時代からのものなのかは、
調べてみても分かりませんでした。
また新しいところでは、習志野七福神弁才天も祀られています。



市角頼母の子孫の方々。
今でもこの辺りの大地主。
戦さに三度敗れたものの、
無事脱出させ、
帰農を成功させて、
名主に就かせて、
現在に続く一族を繁栄をさせた、
この薬師如来像。




残念ながら完全な秘仏だそうです。



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