本尊 福壽薬師如来
宗派 真言宗豊山派
275-0011 習志野市大久保1-17-14
三連休最終日は完全に休息日。
夕方に近所のブックオフに行く途中、
商店街にあるいつも見慣れたお寺です。
何度もお参りしているこちらのお寺の表札をみて、
ふと疑問が一つ湧きました。
ほぇ、「習雲山 薬師寺」?。
「習雲山?。」「習志野だからかい??。」
習志野という地名は古いものではありません。
明治天皇が命名した地名です。
それについては以前に一度書きました。
このお寺、その縁起をみてみれば、
その伝説は関ヶ原の戦いまで遡ります。
関ヶ原の戦い、西軍についた河内国の郷士、市角頼母。
続く、大坂冬の陣、大坂夏の陣も、豊臣側について破れ、
一族郎党、命からがらこの地に逃れ、
帰農して豪農となったそうです。
その時代はまだ勿論、この辺りは習志野ヶ原ではなく、
小金ヶ原・弁天原の大窪と呼ばれていました。
江戸時代、頼母の長男はこの地の名主職に就き、
その名主屋敷の下屋敷に持仏の薬師如来像を祀りました。
この時点では、名主の下屋敷の薬師堂であっただけで、
お寺ではなかったんですね。
明治になって軍都習志野となり、この薬師堂前の、
大久保商店街は、一躍、習志野の中心地区となった訳ですが、
ここに昭和十七年(1942)、
英霊奉安の為に一寺を建立することになり、
この薬師堂が、薬師寺になったという訳なんです。
以前に紹介した吉橋大師講の、
二つある結願札所の内の一つでもあり、
関東九十一薬師霊場の第八十番の札所だそうなんですが、
これはいつの時代からのものなのかは、
調べてみても分かりませんでした。
また新しいところでは、習志野七福神の弁才天も祀られています。
市角頼母の子孫の方々。
今でもこの辺りの大地主。
戦さに三度敗れたものの、
無事脱出させ、
帰農を成功させて、
名主に就かせて、
現在に続く一族を繁栄をさせた、
この薬師如来像。
残念ながら完全な秘仏だそうです。