大石良雄他十六人忠烈之跡 〜旧細川邸のシイ〜

大石良雄等自刃ノ跡碑

108-0074 港区高輪2-16






→ 過去の「赤穂浪士」関連の記事








何度も書いていますが、
自称、忠臣蔵赤穂浪士マニアな私・・・。
・・・先日の事。
ちょうど泉岳寺の裏手にあたる高松宮邸の手前を車で走っていると、
都営アパートの植え込みにこんな小さな石碑が目に付きました。
大正六年に東京府によって建てられた物のようですが、
正面上部に埋め込まれていたであろう何かは欠損しています。
「なになに??、"おお・いし・よしお・とう・じ・は・のせき"??。
ほぇ、"おおいし・よしたか・ら・じじん・の・あと"!!。
"大石良雄等自刃ノ跡"、大石良雄ったら大石内蔵助じゃん!!!!。」
大石良雄等自刃ノ跡碑   
(×)バカ殿(○)浅野内匠頭終焉之地の碑と比較すると、
なんともショボすぎませんか!?。
「つーか!、これだけ??。」と車を降りて探してみると、
団地の奥の、高松中学校の境界に、
土塀に囲まれたこんな"聖地"のような空間がありました。
大石良雄他十六人忠烈之跡の門   
赤穂浪士は討ち入りの後、
四つの大名家のお預かりとなり、
それぞれそこで切腹となりました。
ここは肥後熊本藩屋敷の跡で、
大石内蔵助良雄他、
十六人が果てた地です。 
大石良雄他十六人忠烈之跡内
門前の石碑はショボかったですけど、
やっぱり大石はビックネーム。凄いです。
女好きでスケベでもさすがは大石神社の神になった男です。
切腹の地」がちゃんと残っているのは唯一ここだけ。
こんな旧跡があるのを知らなかった私。
忠臣蔵赤穂浪士マニア、失格!!。




浅野内匠頭も石碑は立派ですが跡地にはビルが建ち、
他の三つの大名家も、
三河国岡崎藩主水野氏の中屋敷跡は灯篭が残るだけ、
伊予松山城主松平隠岐守の三田中屋敷跡はイタリア大使館
長門長府城主毛利甲斐守邸跡は六本木ヒルズとなっています。




徳川家康に「月の岬」と呼ばれたこの地も、
元禄の世とはまったく変ってしまったことでしょう。
その頃からずっと変らずに、
今も人の世を変らずに見つめているのは、
藩邸跡の高松中学の裏手に聳える、
この大きな椎の木だけなのかもしれません。
大きな椎の木      





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