習志野騎兵旅団司令部跡

八幡公園

275-0011 習志野市大久保4-2 八幡公園内




→ 習志野ってどこ??
→ 誉田八幡神社




貝殻のすべり台  おバカな長男
我が家からほど近い八幡公園です。
こんな巻き貝の形のすべり台があることから、
通称「貝がら公園」となどと呼ばれています。
バカと煙はなんとやらと申しますが、
バカな私の子供である、この長男も、
やっぱり例外ではないようです。
私も子供の頃同じことをやっていましたっけ。




習志野騎兵旅団発祥の地の碑①  習志野騎兵旅団発祥の地の碑② 
この公園の中央には昭和五十二年(1977)に建立された
習志野騎兵旅団発祥の地の碑が建っています。
新装版 坂の上の雲 (1) (文春文庫)新装版 坂の上の雲 (2) (文春文庫)新装版 坂の上の雲 (3) (文春文庫)
新装版 坂の上の雲 (4) (文春文庫)新装版 坂の上の雲 (5) (文春文庫)新装版 坂の上の雲 (6) (文春文庫)
そうです。
坂の上の雲」を読んだ方ならご存知ででしょうが、
この地は、あの「日本の騎兵の父」秋山好古が活躍した、
習志野騎兵旅団こと、
陸軍第一・第二騎兵旅団の司令部があった場所なのです。
騎兵旅団司令部
戦前は、こんな建物が建っていました。
この門柱・三柱が、ちょっと動かされたようですが、
今もこの八幡公園の門柱として残ります。
門柱
秋山好古と第一旅団幹部
この写真は、その司令部の講堂があった、
まさにこの八幡公園内の場所で撮られたもの。
中央の人物が好古です。
当時の騎兵連隊の様子
日露戦争では、この十三、十四連隊からなる第一旅団、
十五、十六連隊からなる第二旅団、
両旅団が派遣され活躍しますが、
その後は陸軍もどんどん機械化が進み、
満州事変に出兵する騎兵十三連隊①  満州事変に出兵する騎兵十三連隊②            

 
満州事変では第一旅団(写真は十三連隊)のみが派遣されましたが、
その後は第一旅団は戦車第二連隊となり、
第二旅団があった場所は、陸軍習志野学校と変りました。
騎兵第一旅団司令部跡の碑
この公園の隅には、
この「騎兵第一旅団司令部跡」の碑があり、
軍馬の碑 馬頭観世音 軍馬忠魂塔
騎兵連隊の為に亡くなった馬たちを追悼する、
「軍馬之碑」「馬頭観世音」「軍馬忠魂塔」
・・・が、三基並んでいます。
誉田八幡神社裏
さてこちらは、去年の11月25日に紹介した通り、
誉田八幡神社の裏と、
中合わせで隣接しているので、
今日もご挨拶で参拝してみました。
何度もお参りしている神社ですから、
今まで気付かなかったのが不思議なんですが・・・、
皇紀二千六百年記念参道・敷石竣工之碑①  皇紀二千六百年記念参道・敷石竣工之碑②            
昭和十五年(1940)12月、
皇紀二千六百年を記念して、
参道と敷石を竣工したようで、
この記念碑が建立されています。
よくみるとこの碑の揮毫は、
千鳥が淵戦没者墓苑の時にも触れた、
硫黄島からの手紙 (特製BOX付 初回限定版) [DVD]
あの栗林忠道さんの、
陸軍少将時代の書ではないですか!!。
栗林忠道 書            
           







→ 栗林忠道 - Wikipedia




あらためて略歴をみてみると、
栗林さんは騎兵出身だったんですね。




大正三年(1914)陸軍士官学校卒業後、
現在の自衛隊習志野駐屯地内にあった、
陸軍騎兵学校を卒業し、
騎兵大尉に昇進します。
その後、陸軍大学校に進み、
途中、ハーバード大学に留学したり
カナダに何年か駐在していますが、
昭和五年(1930)騎兵少佐、
昭和八年(1933)騎兵中佐、
昭和十二年(1937) 騎兵大佐に昇進し、
兵務局馬政課長となり
この書を記した昭和十五年に陸軍少将となり、
この騎兵第二旅団長となります。
その翌年の昭和十六年(1941)に、
参謀長として香港攻略戦に参加するまでの間は、
ずっと騎兵一筋ですから、
おそらくずっと何年も、
習志野に勤務していたのですね。




この道を、この街を、
あの栗林忠道さんが歩いていたなんて、
・・・まったく知りませんでしたよ。




私、偉そうに「習志野」を語る資格は、
まだまだ当分ありませんな・・・(汗)。




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