藤原観音堂

宗派 浄土宗
本尊 身代り観音
273-0047 船橋市藤原3-2-18



そもそもこの船橋宮本武蔵伝説は、
吉川英治氏の小説から来ています。
巌流島の決闘の前に、
養子・伊織と共に、下総の法典ヶ原に住み、
開墾しながら農業に勤しむという記述があるのです。
確か、野武士と決闘もしていたっけかな。
(読んだのが何年も前なのであやふやですみません。)
しかし、吉川氏の小説は、
現在、宮本武蔵を語るところ、
真実であると勘違いされている、
吉川氏の創作部分がたくさんあるのです。




確かにこの辺りの地名は、
武蔵が名乗った「藤原」ですし、
今では「船橋法典」と呼ばれています。
藤原観音堂        
そしてこの藤原観音堂が、
その武蔵の居住地跡であるとされています。



ちょっと待ったぁ〜。
この辺りは、徳願寺の「寺領」なんですよ。
この観音堂もあくまで徳願寺の一部に過ぎません。
なんで、寺の「寺領」だからって、
その二つの武蔵伝説が共通するの?。



そもそもこちらの身代り観音さまは、
京仏師の感世さんが、
宇治の長者の依頼でこの像を刻み、
宇治に納めた後の帰り道、
大江山で山賊に刀で襲われたものの無傷でした。
ちょうどその頃、長者の元の観音さまから、
血が流れていたそうで、
身代り観音として篤く信仰されていたそうです。
それを行徳の富豪、田中三左衛門さんが、
丹後の見樹寺から請い受けて、
徳願寺に納めたそうです。



おそらく、その後、寺領を開墾するに当たって、
このお堂をお寺の出張所として建立し、
この霊験あらたかな観音さまを納めたものと思われます。



武蔵伝説のあるお寺の、
藤原という地にある観音堂



吉川英治はこの辺りにヒントを得て、
下総国の法典を、
宮本武蔵に開墾させたのではないでしょぅか。




暗い堂内 
暗い堂内。
お賽銭を入れる穴から中腰で覗き込むと、
秘仏」ということですから、
御前立かもしれませんが、
うっすらと観音さまらしき影が見えます。



しばらくするとだんだん目が慣れてきました。
腰を突き出した中腰の姿勢で、
そのまま更に数分経過・・・。




身代り観音   




やっと、観音さまのお姿が見えました。




「南無観世音菩薩・南無観世音菩薩・南無観世音菩薩」



満足して振り向くと、
農作業の帰りらしきのおばちゃんが私をジロジロ・・・。




賽銭泥棒じゃありませんから。




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