西國三十三所順打ち巡礼記

旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

藤崎墓地 〜融通念仏供養塔〜

275-0017 習志野市藤崎2-15



今日も無償の休日出勤。
なんと今月はそんな予定が四日もあります。
朝からブツブツ文句をタレながら、
いつもと同じ時間に家を出て、
重い足取りで嫌々と会社に向かいます。
そんな訳で私の講義の持ち時間は、
45分あったものの、早く帰りたい一心からか、
早口で、巻いて巻いて、切り上げて約20分で終了しました。
最後の質疑応答は、引き攣った作り笑顔で、
聴衆を睨みつけその隙を与えません。




午後1時30分、JR津田沼駅に帰還しました。
空は快晴のポカポカ陽気。
最近また社食のコンロが故障したせいで、
昼に蕎麦が食べられず、
最近プチ・リバウンダー気味な私です。
折角ですからバスに乗らないでお散歩しましょう。
先日郷土史を研究していて、発見し、
ちょっと立ち寄りたいところがあるんです。




藤崎墓地




地元の図書館で古い地図を眺めていると、
徳川家康・秀忠の鷹狩りの為の街道、
東金御成街道の脇にあるこの藤崎墓地という墓域が、
かなり古くから存在していたと知りました。
元々、私の巡礼は、墓巡りから始まったものなので、
云わば私のソウル・テーマ。(←なんじゃそりゃ。)
古い墓石が掃苔出来るかもしれません。
小高い丘陵のような台地にある、
住宅街の真ん中にぽつんと浮かび、
時間の波から取り残されたかのような霊園です。




融通念仏供養塔




墓地内中央に塚のような円丘があり、
石段が設けられ、
頂上の多数の大木の間に、
石柱のような石碑があります。




石段は北側にあるものの、
正面は東側でした。
先端が屋根のように三角になったこの石碑には、
阿弥陀如来を表すキリークという梵字の下に、
こんな碑文が刻まれていました。




融通念仏供養塔 正面



天 下 泰 平
融通念仏供養塔
御 民 豊 楽


左側面をみると、
文化八年(1811)に建立されたもののようです。
これは融通念仏宗に関連する石碑なのでしょうか。
融通念仏宗といえば、
平安時代末期に聖応大師良忍が改宗したとされる、
その後の法然・浄土宗、
親鸞浄土真宗の、
先駆けになった宗派です。
総本山は大坂の大念仏寺になりますが、
末寺は関西方面に多く、
関東ではあまりメジャーな宗派ではありません。
いったいこの石碑は、
どのような信仰者が建立したのか。




大乗妙典六十六部日本廻国




また、この墓地の東側の端には、
こんな石碑も建立されています。




大乗妙典六十六部日本廻国碑 正面




釈迦如来を表す梵字「バク」の下に、



天下泰平 下総国千葉郡藤崎村
奉納大乗妙典六十六部日本廻国
国土安全        願主 浄元?(浄光?)


と、ありました。
これは、六十六部聖によるものですね。





→ 【御府内第五十五番】瑠璃光山 薬王院 長久院




これはよく見かけます。
以前、ここで、栴檀さん、Han-Syouさんに、
コメント欄で説明を戴いたように、
大乗妙典、つまり法華経を六十六部写経し、
六十六ヶ所に一部ずつ納める巡拝の碑です。
こちらは、側面によれば、
享保二十乙卯年」(1735)の建立。
「融通念仏供養塔」よりも76年も前に建てられた石碑です。
享保といえば、享保の改革
八代将軍徳川吉宗の治世ですな。




円丘=円墳?




この墓地は、現在やはり同じ藤崎町内にある、
真言宗豊山派の藤崎山・正福寺(本尊・阿弥陀如来)が、
管理しているようですが、
私が想像するに、おそらくこの円丘は、
融通念仏供養塔の為に新たに築かれたものではなく、
この地に古よりあった古代からの円墳で、
それが神格化して、これらの石碑が建立され、
やがて自然と墓地となったのではないかと思います。




藤崎古道




東金御成街道造成以前に開かれ、
現代も奇跡的に残るこの藤崎古道の階段を登って、




藤崎堀込貝塚




→ 藤崎堀込貝塚




先土器時代の石斧も出土し、
縄文時代の中期から末期に形成された、
藤崎堀込貝塚の横を歩きながら、
私の想像は時空を越え、
遠く数千年前までと遡りました。




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