宗派 顕本法華宗
本尊 大曼荼羅
283-0802 東金市東金1423
さてやって参りました、東金です。
市街地を見下ろす小高い岡のような斜面を上がると、
どどーんとこの36300㎡の小さな湖、八鶴湖(はっかくこ)があります。
幕末に尊王家の梁川星巌や、
その弟子、遠山雲如が気に入って遊び、
雲如が詩に詠んで天下に紹介したそうです。
蒲が大量に発生してしまったそうで、
地元のボランティアがボートで刈り取っていました。
湖畔南には、なにやら歴史のありそうな建物がみえますが、
ぐるっとまわってからのお楽しみと致します。
湖の南にはこの法華系単立の安国山最福寺があります。
千葉県内に何箇所かあるどこぞの最澄さんが創建し、
当然元は天台宗だったそうです。
文明十一年(1479)年に当時の住職が、
法華宗妙満寺派に改宗し、
後にここに城を移す土気城主の酒井定隆の援助で中興します。
妙満寺派は、顕本法華宗となり、
日蓮宗、本門宗と一緒になって日蓮宗となりますが、
戦後に旧顕本法華宗の一部が、
それより独立して顕本法華宗に戻り、
また他の一部は日蓮宗に残り、
他の一部は単立寺院となったそうです。
こちらはそんな"単立"選択組です。
そのまま湖畔を北上すると、
湖の北東に日吉神社の鳥居があります。
実際、神社はここから遠い、
更に北東の丘の上にあるそうですから、
ひょっとすると東金城築城か、東金御殿造営の際に、
鬼門を封じる為に建立されたのかもしれません。
(実際神社にはお参りしていないので未確認です。)
さてその今回の目当てである東金城跡、東金御殿跡に、
現在はこの鳳凰山本漸寺と県立東金高校があります。
こちらはなんと曹洞宗のお寺だったそうですが、
お向かいの最福寺さんとに同じく、
法華宗妙満寺派となって、
顕本法華宗となり、日蓮宗となりますが、
後に顕本法華宗に戻った旧守派に属していたようです。
なかなか趣きのある本堂。
どうやら改修中の様子です。
本堂裏の岩壁には、
この二つの洞穴がありますが、
僧の修行用なのか、
はたまた先の大戦の防空壕か、
解説はまったくありません。
さて、最福寺さんにも登場した東金城城主、
酒井一族の菩提寺ですから、当然、大檀那。
本堂左手にこの供養塔と宝篋印塔が、
所狭しと並んで建ちます。
さてどの辺りが東金城だったのか。
「千葉県の歴史散歩」によれば、
丘陵の尾根伝いに曲輪を連ね、
斜面には腰曲輪がめぐっている。
土塁、空堀もよく残っている。
とあり、その南西側の曲輪の先端には、
太平洋戦争時の敵艦への着弾を観測する、
コンクリートの施設や兵士の蛸壺が残っているそうです。
また、東金城廃城の跡は、
江戸幕府により東金御殿が造営され、
家康や秀忠の鷹狩りの際に使用されました。
そう、ここは我が家の前を走る、
東金御成街道の終着地点でもあるのです。
この千葉県立東金高等学校が、
城、御殿のその一部であることに間違いありません。
しかし文化祭でもなければ、
勝手に立ち入る訳にもいきません。
この正門のレンガは陸軍のものと似ております。
噂によれば、こりん星のお姫様は、
この高校の出身とか。
正門左手のこの独特の歴史のある建造物も、
結局なんなのか不明のままです。
お寺と高校の間にこの厳しい門があり、
どうやら遊歩道のようですが、
先日の台風の影響からか、閉じられたままのようです。
結局、城の現存する土塁や、
陸軍の施設がわからないままです。
ひょっとするとこの寺と高校の境にある、
この小山かもしれません。
後悔はしたくないので、根性で行ってみます。
やぶ蚊にボコボコにされ、草の実だらけになって、
山を這いずりまわるも、結局何もありません。
・・・がっかりです。
御殿造営の頃に建てられたと言う、
小さな弁天堂です。
この弁天堂の周りには、
放し飼いのアヒルが数匹お散歩していました。
息子たちはこのケヤキの大木に惚れ、
じゃれつくようにまとわりついていました。
さきほど湖畔北東側から見えた、
南湖畔のこの建物は、
創業明治十八年(1885)創業、
国登録有形文化財にも登録されている、
八鶴亭という料亭でした。
北原白秋や伊藤左千夫も通ったそうです。
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