最正山 覚林寺 (清正公)

清正公前

宗派 日蓮宗
本尊 一塔両尊四士
108-0071 港区白金台1-1-47




→ 発星山 本妙寺別院 清正公寺



午後は五反田と白金の休眠顧客を訪ねます。
五反田から国道一号を北上し、
明治学院を過ぎ、白金に戻ると、
清正公前」(せいしょうこうまえ)の交差点。




三年前のこの上のリンク記事にも記した通り、
これは、この左手にある、
日蓮宗の覚林寺さんに由来します。
このお寺にお参りするのは初めてではありませんが、
それはブログを始めるずっと前のこと。
その後何度かこのブログに載せようと、
車を停めようと試みるも、
なかなか実現できず、何年越しかで、
今日やっと実現いたしました。





清正公とはご存知、加藤清正のこと。
上のリンクの過去記事の「清正公寺」は、
熊本藩・細川家の下屋敷の邸内跡。
そしてこちらは中屋敷の邸内の跡です。




その時の記事にも書きましたが、
こちらは加藤清正朝鮮出兵で連れて帰った李王朝の王子の子、
後に清正の養子となった可観院日延が、
隠居寺として開山したお寺です。




清正はこの養子をとても優遇し、
日延もまた養父を生涯、崇拝し続けました。
そして熊本藩藩士・領民も、加藤清正を愛し、
また細川家もずっと加藤清正を尊重し続けたのでしょう。
廃仏毀釈を経ても、この二つの「清正」寺が、
今もこの東京にも現存することが何よりもその証です。




門前の石標




山門左手の小屋のような商店と、
電話ボックスの間には、
右側にお題目が標された、
大きな石標がありました。
正面には、
「守護 清正公大神儀」とあります。
そうずばり大神様でございます。
左側には、「寛延四辛未歳」とありますから、
西暦1751年の建立です。





山門



山門の左柱にも、
「開運守護 清正公大神儀御鎮座」
右柱には、
「山手七福神 大毘沙門天王御安置」
と、あります。
しかしこのお寺は、
弘化二年(1845)の大火で全焼し、
この山門は安政三年(1856)の再建です。




本堂



この通り、山門右手の本堂は、
数年前に建てられた真新しいもので、
あまり、歴史はありません。
この本堂が建てられた頃に、
山門や清正堂も改築されて、
銅葺が葺き直されて、
緑色から茶色になりました、
この中に、ご本尊、
「一塔両尊四士」が安置されていることでしょう。
境内にある万延元年(1860)に建てられた、
清正二百五十年忌の石碑に記されている、
「清正公大神儀朝鮮退治随身御守本尊開運立像釈迦牟尼佛」
は、やはりこちらでしょうか。
清正の所持仏、是非、ご開帳願いたい。






毘沙門堂・稲荷堂




山門から境内左手は、
この真新しい毘沙門堂と稲荷堂。
毘沙門様は白木の新しい仏様。
実は山手七福神・・・(ほとんどすべての七福神巡りは・・・)、
さほどあまり深い歴史はありません。





浄行堂 浄行菩薩



境内中央には、
日蓮宗寺院にはお馴染みの浄行菩薩を祀る浄行堂。
法華経に登場する四菩薩の中のお一人ですが、
あまり知らないでお参りすれば、
観音様だと思われてしまうことでしょう。




清正公堂




さて、事実上の本堂である清正公堂。
山門と同じ大火で焼失し、
これも慶応元年(1865)の再建です。




有栖川宮熾仁親王・扁額「破魔軍」




そんな時期のことですから、
この扁額は、有栖川宮熾仁親王の書「破魔軍」。
この宮さんの書は、多数観ておりますが、
この扁額によってこちらでの戦勝祈願が増えたそうで。




清正公堂の彫刻  清正公堂内




元武人の大神を祀るお堂だけあって、
龍が力強く彫刻されています。
堂内目を凝らすも、
清正公像はおそらく御簾の奥の秘仏(秘神?)。
右側にはお馴染みのフトンを被った日蓮さんの像がありました。





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