三浦按針屋敷跡

103-0022 中央区日本橋宝町1-10-8



明日の二つの会議に向けて、
書類作成に勤しんでおりましたら、
その内の一つが、ご家老の都合からか、
なんと来週に延期になりました・・・。
元々このキツい日程を組んだのも偉い人なら、
簡単に変更したのもお偉いさん。
振り回される下の者はたまったものではありません。




按針通り  按針通りの標識




さて、中央区日本橋宝町一丁目の一角から、
日本橋本町の一角へと東西に伸びるこの路地は、
「按針通り」と名付けられています。




按針といえば三浦按針こと、
このイギリス人だった、
ウィリアム・アダムス。
同じリーフデ号で日本に漂着した、
ヤン・ヨーステンの屋敷跡は、
なまって「八重洲」の地名と由来となりますが、
この人は帰国を試みて失敗し亡くなります。
一方、アダムスは、帰化して、
三浦按針となり旗本に取り立てられて、
三浦半島に所領を拝領します。
ここに現在もこの夫妻の墓があって、
京浜急行電鉄の「安針塚駅」という駅名になっています。




ビルとビルの合間の三浦安針遺跡



この通りにあったのは彼の江戸屋敷跡。
ビルとビルの合間に、
ステンレスの箱が作られて、
その中にこの碑が建てられています。



史跡 三浦按針屋敷跡


       史  跡
  三 浦 按 針 屋 敷 跡 

       〜 英 文 略 〜

 ウイリアム・アダムスは西暦1564年イギリスのケン
ト州に生まれ、慶長5年(1600)渡来、徳川家康に迎えられ
て江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船・砲術・
地理・数学等に業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交特に
通商の顧問となり、日英貿易等に貢献し、元和6年(1620)
4月24日平戸に歿した。
 日本名三浦按針は相模國三浦辺見に領地を有し、また
もと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで
安針町と呼ばれた。


古地図の安針町




日英ハーフの彼の息子が、
二代目三浦按針となったそうですが、
鎖国寸前に消息を絶っています。
それなのにこの地が昭和の初めまで、
「安針町」だったというのは意外でした。




日本橋川 川面の桜の絨毯



さてさて、江戸の昔から、
この日本橋下を流れる日本橋川は、
沿岸の桜の花弁を集めて、
ピンクの絨毯のようになっていました。




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