高尾稲荷神社

祭神 高尾稲荷大明神 
103-0015 中央区日本橋箱崎町10



科学がここまで進んだ現代ですが、
古今東西、この世の中には、
まだまだ人の力では計り知れない、
不思議なことが多々起こります。



→ 幽霊の話
あんた誰? その → 
→ 次男の一句 その二



今まで書いた、この通り、
ひょっとすると、
これは私の精神的な病かもしれませんが、
私と次男は、度々この世のモノではないであろう、
何らかの"力"を感じることがあります。




実はここにはあまり具体的には書いておりませんが、
とある神社仏閣で、強く異様な"力"を感じたり、
また、どうしても鳥居がくぐれずに、
お参りすることを断念した神社もありました。



この神社もそんな"力"を感じた一社でした。
半年以上も前のこと。
仕事ですぐ近くに来て、何の由緒も知らぬまま、
デジカメで社殿や案内板を撮影し、
後で調べて記事にするつもりだったんですが、
どうもこめかみと目の奥が痛くなり、
動悸が激しくなり、手が震え
すぐに神社を後にしました。
後でデジカメを観て見ると、
なんとその神社を撮影した写真のみがすっぽりと、
まったく一枚も保存されていなかったのです。
数ヵ月後、再び伺って携帯電話のカメラで試みるも結果は同じ。
やはり、この神社の写真のみ保存されません。
またそれを文章のみで記事にしようとも思いましたが、
なぜかそのアップロードの失敗まであったのです。




これにはさすがに驚き畏れました。
その後、いろいろと勉強して、
この神社が建立された悲劇を知りました。



→ 伊達騒動 - Wikipedia



この伊達騒動が史実かどうか、
その真偽は不明ですが、
この日本橋川で、惨殺された女性の、
遺体が引き上げられた事は史実でしょう。
このご祭神は、そんな知識すらない私に、
興味本位で写真を撮られることが、
お嫌だったのかもしれません。





先日「神社は大きさではありません。」
と、書きましたが、こちらの社殿小さくとも、
おそらくとてもお力の強いご祭神が御座します。




さて、やっとご祭神のお許しを頂いたようです。
今日は、きちんと、
S90に写真が保存されました。




しかし、この記事については、
そんな経緯から、なるべく主観を除き、
案内板を写し、ただ写真のみに致します。





日本橋川にかかる湊橋の南東詰の案内板



日本橋川にかかる湊橋の南東詰にある案内板。
下記はその案内板の写し。



      高尾稲荷社について
今より約三百二十一年の昔万治二年十二月皇紀
二阡三百十九年、千六百五十九年隅田川三又
現在の中洲あたりにおいて仙台候伊達綱宗により
遊舟中にて吊し斬りにあった新吉原三浦屋の
遊女高尾太夫(二代目高尾野洲塩原の出)の遺体
がこの地に引上げられ此れより約八十米隅田川
旧東神倉庫今の三井倉庫敷地内に稲荷社として
祀られ古く江戸時代より広く庶民の信仰の対象と
なりかなり栄えておりましたが明治維新明治五年
当時此の通りを日本橋永代通りと謂われ最初
日本銀行開拓庁永代税務署等が建設にあり
高尾稲荷社は只今の所に
移動しおとづれる人もおおかったが
昭和二十年三月二十日戦災
により社殿は焼失いたし
時代と共に一般よりわすれ
られ年々と御参詣人も
少なくなってしまいました。
時折り町名変更につき
当町会名保存と郷土を
見なをそうとの意志に
より高尾稲荷社を
昭和五十年三月再建工事
の折り旧社殿下より高尾太夫の実物の頭蓋
骨壺が発掘せられ江戸時代初期の重要な
史跡史料として見直され
ることになり数少ない
郷土史の史料を守るため
今後供皆様のご協力を
お願い申しあげます。
           日本橋区北新堀町々会

高尾稲荷社




高尾稲荷神社。
下記は境内にある案内板の写し。




高尾稲荷社の由来
 万治二年十二月(西暦一六五九年)江戸の花街新吉原京町一丁目三浦屋四郎左衛門
抱えの遊女で二代目高尾太夫、傾城という娼妓の最高位にあり、容姿端麗にて、
艶名一世に鳴りひびき、和歌俳諧に長じ、書は抜群、諸芸に通じ、比類のない
全盛をほこったといわれる。
 生国は野州 塩原塩釜村百姓長助の娘で当時十九才であった。
その高尾が仙台藩伊達綱宗侯に寵愛され、大金をつんで身請けされたが、
彼女にはすでに意中の人あり、操を立てて侯に従わなかったため、ついに怒りを
買って隅田川の三又(現在の中州)あたりの楼船上にて吊り斬りにされ川中に
捨てられた。
 その遺体が数日後、当地大川端の北新堀河岸に漂着し、当時そこに庵を構え
居合わせた僧が引き揚げてそこに手厚く葬ったといわれる。
 高尾の可憐な末路に広く人々の同情が集まり、そこに社を建て彼女の神霊
高尾大明神を祀り、高尾稲荷社としたのが当社の起縁である。 
 現在この社には、稲荷社としては全国でも非常にめずらしく、実体の神霊
(実物の頭骸骨)を祭神として社の中に安置してあります。
 江戸時代より引きつづき昭和初期まで参拝のためおとずれる人多く、
縁日には露店なども出て栄えていた。
懸願と御神徳
 頭にまつわる悩み事(頭痛、ノイローゼ、薄髪等)、商売繁昌、縁結び、学業成就。
◎懸願にあたりこの社より櫛一枚を借り受け、朝夕高尾稲荷大明神と祈り、
懸願成就ののち他に櫛一枚をそえて奉納する習わしが昔から伝わっております。

  高尾が仙台侯に贈ったといわれる句
       「君は今 駒形あたり 時鳥」
  辞世の句
       「寒風よ もろくも朽つる 紅葉かな」

   昭和五十一年三月
                          箱崎北新堀町々会


高尾稲荷社 社殿小祠




祭神・ご神霊の実体(実物の頭骸骨)を安置する社殿小祠。






今週土曜、五月十五日(土)、正午より午後三時、例大祭





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