二週間前の、九月の初めに、
突然母から携帯に電話があり、
父が入院したことを知りました。
私は一人っ子なんですが、
父母とは近くに住みながらも、
ここ十数年少し疎遠になっておりましたが、
前回、会ったのは私が入院した際に、
見舞いに来てもらって以来のこと。
そのたった数ヶ月前には元気だった父ですが、
八年ほど前に前立腺肥大の手術をしており、
その温存箇所が癌になり膀胱に転移したとか。。。
さっそくその日の帰り道に病院に寄ってみれば、
意外にも元気そうな父に会えました。
しかし母の電話の話によると、
病状はもはや手術出来る状態になく、
ホルモン治療と抗がん剤がうまく合っても、
後残り半年ほどの余命だと聞かされております。
しかし父は癌であることは告知されているものの、
余命が短いということは聞かされておらず、
一生懸命に食事を食べて体力をつけて、
癌を直して家に帰る決意を固めておりました。
私は残された半年という短い時間の中で、
とにかく今までの親不孝を、
少しでも取り返すことの出来るように、
出来る限りの親孝行をすることを決意して、
涙を抑え隠し、病院に通いました。
たった二人の孫である息子たちも、
快く見舞いに付き合ってくれて、
祖父を喜ばせることも出来ました。
しかし父の癌はスキルス性のものだったのか、
それからたった数日で肺に転移し広がり、
あと残り数日で肺の中に水が貯まり、
まるで溺死するかのような、
最期になると聞かされたのは、
ついたった一週間前のこと。。。
これからモルヒネで、
苦痛を失くすことのみに専念するので、
すぐに昏睡して意識がなくなるので、
最期に会わせた人をみんな呼んでくれと言われ、
父の姉である伯母を父の故郷から呼び寄せたのは、
今からたった六日前のことです。
しかし父は強い精神力で、
それから何日も意識を失わず、
麻薬の副作用にも自我を惑わされることもなく、
「ガンを治して絶対に家に帰る」という執念で、
もはや昏睡状態なはずの状況下に、
全身点滴とチューブと酸素マスクに絡まれて、
まるであやつり人形のようになりながらも、
自らの力で箸を持ち食事を取り続け、
立ち上がって洗面所で歯を磨きヒゲを剃りました。
私はサルマネのような親孝行がしたくて、
アンパンと羊羹が食べたいと聞けば、
赤坂の虎屋、銀座の木村屋で買い求めて、
病室に届けました。
ここ数日は病室に母と二人で泊まりこみ、
交代の寝ずの番で、
生体モニターを見守り続けましたが、
一昨日夜についに昏睡状態に陥ってしまい、
ただ幸いにも血中酸素は充分な量を保ったまま、
昨日朝に、心拍数が130まで上昇した後に、
緩やかに減少して、
午後15時50分心臓が停止しました。
私と母の最後の声掛けに答えるかのように、
一旦止まった心臓が再び動き出したことには、
最期にまた父の強さをみせてもらいました。
爺さん、最期までマジでカッコよかったぜ。
さてこんな所に書いたところで、
亡き父に伝わるとは思えませんが、
親不孝なバカ息子の最期の感謝の言葉です。
父ちゃん、あなたはいつも私の憧れであり、
いつも俺の男の目標そのものでした。
中学を出てすぐに、
自転車屋に丁稚奉公に出され、
トラックの運転手から、
観光バスの運転手になり、
バスガイドだった母と出会い、
結婚して私をもうけ、
すぐに家を建て、
二度の建て替えもして、
「いつかはクラウン」
という目標も達成しました。
私は子供の頃、山のように巨大な、
観光バスのハイデッカーを操る、
父が自慢でした。
一人息子はバカで、
なんの自慢にもなれませんでしたが、
爺さんの最後のたった唯一の自慢話は、
孫の高校だったそうです。
これには長男にも感謝せねばなりません。
父ちゃん、本当にお疲れ様でした。
最期はみんなで、
余命を騙すような形になってしまいゴメンなさい。
また数々の親不孝は、
ここではとてもお詫び出来ず、
これはまたあの世で再会した際に改めて伝えます。
ありがとう、お父さん。
私はあなたの息子に生まれて本当に幸せでした。
追伸:
以上が今回ブログを休止しておりました、
本当の理由です。
木曜日のお通夜、金曜日の告別式終了まで、
もう少しお休みさせてください。
なお、故人本人の強い遺志により、
通夜・告別式は血縁者のみの家族葬とさせて頂きます。
重ね重ねわがままをいって申し訳ございません。
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