285-0866 佐倉市臼井台895
新川・印旛沼 サイクリング その → 一、二(1)、二(2)、三(1)、三(2)、三(3)、三(4)、三(5)
さて、こちらもいつかは来てみたかった、
あの上杉謙信が落とせなかったという臼井城の城跡。
典型的な中世の連郭式城の平山城で、
今も四方に土塁や空堀が現存しています。
案内板はあまり詳しくなくて、
なんだかいい加減でとても残念。
西側の二の丸跡の第II郭の端、
今も深い空堀がそそり立ち、
堀の底は草木が密集していました。
二の丸第II郭と、本丸の第I郭の間には、
この土橋の尾根で繋がっていて、
一度に大勢の敵が渡れぬ工夫をしており、
敵が挙って攻めて来ても、
上から防御しやすい構造になっています。
この土橋脇の左右の土塁は、
現代、近所の子供達の格好の遊び場のようですが、
文化財保護の観点から見るとちょっと心配。
第I郭の本丸を守る土塁が、
かなりキレイにハッキリと残っています。
本丸跡にあるこの小祠は、
もう朽ち果てる寸前で傾いていましたが、
今は佐倉市立の公園内なので
現代は政教分離の原則があって、
地方自治体は治せないんですよ。
臼井城本丸跡から印旛沼を望みます。
印旛沼は開拓され続けておりますから、
昔はもっとすぐ下まで、
湖畔がせまっていたはずです。
確かに攻め辛いお城のようですが、
謙信との攻防の前に二度落城しています。
初めの落城は、享徳の乱の折の、
太田道灌によるものです。
しかしながら道灌の弟(甥説もあり)、
太田図書助資忠らが討ち死にし、
今も城址公園から少し離れた、
元は三の丸だった土塁の上に、
この太田図書の墓が残されています。
墓石の裏に回り込んで調べたものの、
墓誌、碑文らしきものがなく、
いつの時代に建てられたものなのかは、
全く不明のままです。
当時、城の物見台になっていただろう高台は、
その後の住民の信仰からか古峰神社を経て、
現在は浅間様を祀る富士塚になっていました。