鳴鐘山 東勝寺 (宗吾霊堂) 〜新川・印旛沼 サイクリング その五(1)〜

宗派 真言宗豊山派
本尊 宗吾尊霊
286-0004 成田市宗吾1-558






新川  サイクリングロード  



昨日日曜日が三回忌の法要で、
明日火曜日が祥月命日なものですから、
遅い夏休みをこの月曜火曜に取りましたが、
今日は特に予定もなく、
またまた前日に思い立って、
チャリ友ゾウとサイクリング。
成田在住在勤の、
やはり高校の同級生のピーも、
午後は半休だそうで、
とりあえず成田方面へ、
いつもの新川を遡り、
印旛沼方面へ向かいます。



道の駅やちよ八千代ふるさとステーション



さていつもの第一休憩所、
道の駅やちよ八千代ふるさとステーションは、
月に一回の休業日でした。
月曜日っていろいろ休みで不便デス。




風車  フライング開花コスモス



第二休憩所、オランダ風車のある、
佐倉ふるさと広場は、
秋の名物のコスモス畑の準備ちう。
フライング開花していた一輪をパチリ。



ナウマンゾウ前



そして第三休憩所、
ナウマンゾウの親子像、
双子公園の後は、
一路、宗吾参道方面へ。



鳴鐘山 東勝寺 (宗吾霊堂)


さて最初にやって参りましたのは、
成田市宗吾の鳴鐘山東勝寺。
宗吾霊堂」という名の方が有名で、
最寄りの京成の駅は、
宗吾参道駅」と付けられています。
しかしワタシ子供の頃に祖母に連れられて、
何度か来た覚えがあるますが、
境内の様子などは全く記憶にありません。



宗吾父子の御墓  墓石



こちらが山門手前にある宗吾父子の御墓。
そもそもこの東勝寺は元は違う場所にありましたが、
宗吾父子が処刑されたこの場所に移転し、
宗吾尊霊を本尊として祀ってから、
宗吾霊堂と呼ばれるようになりました。
佐倉宗吾こと木内惣五郎をご存知でしょうか?
諸説があって細部が多少異なりますが、
江戸時代初期の生まれ、
佐倉城下公津村の名主・木内惣五郎は、
堀田正信の苛政、重い年貢に苦しむ、
藩民を代表して、藩や江戸役人、
幕府老中にも減税の訴えを、
申し出るが聞き入れられず
止むを得ず上野寛永寺参詣中の、
征夷大将軍徳川家綱の籠に直訴をします。
結果、正信の悪政は収められますが、
御公儀直訴の大罪により惣五郎夫妻は磔、
男子全員も打ち首となってしまいます。
処刑後、藩主・堀田正信は、
惣五郎の怨霊に祟られて発狂。
ついには無断帰城をした罪で、
所領没収の上に改易になります。
その後藩主は他家に、
何代か移り変わりますが、
正信の弟、正俊の系統の堀田氏が、
再び佐倉藩主となり、
先の堀田家の罪を悔いて、
堀田正亮が惣五郎の百回忌の際に、
「宗吾道閑居士」の法号諡号し.
これ以来「宗吾様」と呼ばれるようになります。



御墓台座  御墓 裏の碑文


寛政三年(1791)に堀田正順が、
「徳満院」の院号と、
石塔一基を寄進したとありますが、
現在のこの墓石は、
明治二十八年(1895)と銘があります。




山門  薬師堂



新しい山門と薬師堂。



別格本山 宗吾霊堂 案内




真言宗豊山派別格本山になっているんですね。
ちょっと驚きました。



本堂  本堂の扁額


さて宗吾尊霊が祀られる本堂。
扁額の揮毫は徳川宗家第十六代、
徳川家達の書です。



本堂裏  本堂裏手の大黒天


本堂の裏手には、
本尊に背を向けて、
大黒天が祀られています。



宗吾霊宝殿  宗吾御一代館



宝物館である宗吾霊宝殿、
宗吾さまの生涯をパノラマで展示する、
宗吾御一代館は残念ながら月曜休館でした。