凌雲山 崇禅寺 〜細川ガラシャ墓・足利義教首塚・遠城兄弟墓〜

宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来
533-0033 大阪市東淀川区東中島5-27-44
公式サイト http://souzenji.net/



→ カトリック玉造教会・聖マリア大聖堂〜高山右近像・細川ガラシャ像・ガラシャ記念碑〜
→ 越中井〜細川ガラシャ最期の地〜






大阪生活三日目の二回目の朝。
通勤時間がとても短いもので、
いつもの時間に目が覚めて、
普通に支度をして出社すると、
とんでもない早い時間に、
難波の事業所に到着してしまいます。。。
今朝はちょっとマンションのご近所で、
歴史散歩をしてから出社する贅沢を楽しみます。




山門





あの細川ガラシャの墓があるという、
曹洞宗崇禅寺さんにお参りしました。
近くに阪急電車の「崇禅寺」という駅もあります。
しかし、朝が早すぎましたでしょうか。。。
南側正面の山門はしっかりと閉まったままです。




不許葷酒入山門と摂津県・豊崎県県庁所在地跡碑




山門手前の左に、
禅寺にお馴染みの「不許葷酒入山門」と、
「摂津県・豊崎県県庁所在地跡碑」。
明治二年(1869)1月20日に発足した摂津県。
同年5月10日には豊崎県に改称され、
同年8月2日には兵庫県編入され、
その後またすぐに大阪府に編集されますが、
そのわずかな間に存在した摂津県、豊崎県の
県庁はここにあったということです。




通用門




どうやら今は山門は通常閉めたままのようで、
南東の角にある通用門(?)が開いていました。




本堂





伽藍は、戦国の戦火や大阪大空襲により焼失し、
現在の本堂等は平成元年(1989)再建の鉄筋コンクリート造り。




墓所





本堂の丁度裏手北側に、
この墓石が三つ立ち並ぶ、
瓦屋根のある墓所があります。




細川ガラシャ墓




一番左がこの「秀林院細川玉子之墓」。
旧姓「明智珠(玉)」こと細川忠興正室の、
細川ガラシャの墓です。
ガラシャの死の数時間後、オルガンティノ神父は、
越中井付近からガラシャの骨を拾って、
最初は堺のキリシタン墓地に葬ったそうです。
後に忠興が細川家菩提寺に遺骨を改葬したのがこちらなんだとか。




足利義教首塚




中央の墓石は「足利義教首塚」。
嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺された、
室町幕府六代将軍・足利義教首塚とされています。
赤松氏が本領に引き上げる途中、
この寺に首を放置したとのことですが、
兵庫県の安国寺という臨済宗のお寺にも、
義教の首塚があるそうです。





徳叟亨隣墓




そして右側の卵塔は、
「徳叟亨隣大和尚禅師之墓」とあり、
墓石には「當山開山塔」と刻まれています。
天平年間(729-749)に行基により創建され、
当初は法相宗の寺院であったとされますが、
あくまで開山・開基はこの徳叟亨隣が、
曹洞宗に改めたところから数えているようです。




遠城兄弟墓  崇禅寺馬場遠城兄弟墓の案内




この三基の墓とは別にあるのが、、
崇禅寺馬場遠城兄弟の墓」。
どうやら調べてみますと、
この事件の被害者を弔ったもののよう。




→ 崇禅寺馬場の仇討 - Wikipedia




遠城兄弟の墓石  遠城兄弟終焉地碑と塚




要するに剣術の試合で勝って、
逆恨みされて闇討ちにあい殺された弟と、
弟の仇討ちの為に、
敵をこの寺の馬場に呼び出したものの、
逆に多数の助太刀の加勢にあって、
返り討ちにあい殺ろされた兄を弔うもののようで、
兄弟二人の戒名の記された墓石の隣に、
別に「崇禅寺馬場遠城兄弟終焉之地碑」と、
「遠城兄弟の塚」があります。
なんとも悲惨な兄弟の悲しいお話ですが、
浄瑠璃や落語、また戦前数多く映画化されたようで、
昔はとても有名なお話だったようです。