国指定史跡 唐招提寺旧境内
宗派 律宗 総本山
本尊 廬舎那仏
630-8032 奈良市五条町13-46
公式サイト http://www.toshodaiji.jp/
→ 「鑑真」関連の記事
→ 「唐招提寺」関連の記事
いつの間にか雨は上がり、
薬師寺の與楽門から北に約500m歩き、
唐招提寺の南大門に辿り着きました。
時間があれば法隆寺にも行きたかったのですが、
残念ながらに本日はこちらが最後になりそうです。
言うまでもなく、唐招提寺は、
天平勝宝五年(754)に来日した鑑真が、
新田部親王の旧宅跡を朝廷から譲りうけて、
天平宝字三年(759)に寺としたもの。
鑑真について語るとキリがないので、
不本意ながらWikiを貼ります。
参道正面は本堂の金堂で、
当然国宝で奈良時代の建立。
井上靖「天平の甍」が有名ですが、
現在のこの屋根は元禄年間(1688-1704)の改造。
明治期にも改造があったようですが、
近年解体工事が行われたばかりです。
この金堂に安置されている、
国宝の三体、中央の盧舎那仏坐像、
左の千手観音立像、
右の薬師如来立像がとにかく圧巻。
膝がガクガクしてしまうほどの大迫力。
講堂はやはり奈良時代のものですが、
平城京東朝集殿から移築したもので、
なんと唯一現存する平城京の遺構です。
ここには鎌倉時代に制作された、
重文・弥勒如来坐像が安置。
こちらの弥勒様は菩薩ではなく、
如来なので五十六億七千万年後のお姿です。
金堂の三尊と合わせて、
顕教四仏となるグループ構成。
まるで禅寺のように質実剛健ながら、
瀟洒である境内に感動が止まりません。
国宝の鼓楼は仁治元年(1240)の建立で、
本来は経楼だったようですが、
一階に仏舎利も安置していることから、
「舎利殿」とも称されています。
二つ並んだ校倉は北(左)が宝蔵で、
南(右)が経蔵。共に国宝ですが、
経蔵は新田部親王邸の、
米倉を改造したもののようで、
これも現存する日本最古の校倉になります。
この建物は元禄年間に、
徳川家歴代の御霊殿として建立されたものですが、
明治十四年(1881)に、
国宝・鑑真和上像を安置する為移築され、
その後、和上像が御影堂に移されたのちは、
覚上上人・聖武天皇・徳川家康を祀る本願堂となり、
近年、老朽化による改修工事の後には、
国宝の和上像の製法を忠実に模して製作された、
「お身代わり像」を安置しています。
この本物の国宝・鑑真和上像は、
やはり十年以上も前に上野で拝見しましたが、
通常は年間数日しか公開されません。
ですので、この重文・御影堂も、
通常は非公開で、この門の外から伺うのみ。
毎年六月六日の開山忌舎利会の前後三日、
堂内が公開されて国宝・鑑真和上像に拝せます。
金堂の西側、僧になる為に、
授戒が行われる戒壇は、
江戸時代に建物が焼失し、
現在は三段の石段の上に、
昭和五十三年(1978)に、
インド・サンチーの古塔を模した、
宝塔が築かれています。
境内の北西の本坊の近く、
鑑真和上も利用していたという醍醐井戸は、
今も滾々と湧水を湛えていました。
金堂の北側の食堂は、
今は礎石すら草木に埋もれており、
往時の様子は分かりかねます。
金堂東の「新宝蔵」つまりは宝物殿は、
残念ながら夏季閉館ちう。
しかし、展示されている宝物の多くは、
どうやら上野の唐招提寺展で、
観たことのあるものばかりのようです。
さて掃苔マニア垂涎の、
鑑真のお墓である開山霊廟は、
境内の東北にあります。
杉の巨木と苔の生した深い静寂に包まれた聖域。
池にかけられた橋を渡ると小高い円丘があり、
この頂上に鑑真の墓石である宝篋印塔が建っています。
今日は奈良を満喫した素晴らしい一日でした。
気が付けば昼飯も忘れて、
丸一日、揚々と歩き回っておりました。
自分の後姿はみれませんが、
ひょっとすると一日中、
嬉しくてスキップしていたかもしれません。