元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

習志野在住紀尾井町勤務の千葉都民。神社仏閣・歴史散歩、カメラ、ロードバイクが趣味。ラーメン(二郎京成大久保店ホーム)・蕎麦が好物。

高野山 金剛峯寺

宗派 高野山真言宗 総本山
本尊 薬師如来阿閦如来
648-0294 伊都郡高野町高野山132
公式サイト http://www.koyasan.or.jp/





高野山東京別院 長寿寺 → その一その二
→ 【御府内第十三番】高野山 龍生院
→ 特別展「空海と密教美術展」東京国立博物館 その十
→ 「高野山の名宝」サントリー美術館 その二
→ 「高野山」関連の記事






高野山・真田九度山1dayチケット  南海電車 急行 橋本行き





昨日の奈良散策が時間切れとなりまして、
当初は二日連続で奈良を訪問して、
斑鳩・飛鳥を散策するつもりでおりましたが、
帰りの大阪市営地下鉄の中吊りで、
この高野山・真田九度山1dayチケットを見かけて、
そのまま新大阪の駅長室で発作的に購入。
今朝も難波に出ましたが、
今日は近鉄ではなく南海の乗り場より、
まずは急行で橋本駅へ。





橋本駅で赤い電車に乗り換える  南海・真田赤備え列車の中吊り




昨年、開創1200年を向かえた高野山ですが、
世間は今年の大河ドラマ真田丸」の主役、
没後401年の真田信繁(幸村)ブームで、
これについてはこの次の記事で触れますが、
南海電車もこれにノッて六文銭に真田の赤備え。。。
とりまこれに乗り換えて、
急カーブに車輪を呻らせながら、
高野山の登山口、極楽橋駅へ。





極楽橋でケーブルカーに乗り換える  急こう配を登るケーブルカー





極楽橋駅でこのケーブルカーに、
接続して乗り換えます。
このケーブルカーは正式には、
南海電鉄の路線「南海鋼索線」。
わずか五分の乗車時間ですが
路線距離は0.8km、高低差330m。
最大勾配563‰は国内トップクラスとか。





ケーブルカーが山頂に到着  高野山駅に到着




標高867mの高野山駅に到着しました。
冷んやりと気温が涼しく心地よいです。
駅舎は昭和三年(1928)完成の木造二階建。
洋風っぽくもあり屋根に宝珠があるなど、
寺院風でもある国の登録有形文化財





バスで女人堂へ  女人堂前



ここから南海バスに乗りました、
バスはバス専用道を走り、
程なく女人堂前に到着。
明治五年(1872)の入山解禁まで、
高野山は女人禁制で、
女性はここまでしか入れませんでした。
山内に定住が許されたのは、
なんと明治三十九年(1906)のことです。




女人堂  女人堂内





女人堂は、古くは街道の、
入口それぞれに七箇所あったそうですが、
今はここのみが残ります。
お参りすると大日如来が祀られていました。




徳川家霊台入口




女人堂から山内をしばらく進むと、
波切不動堂の手前に、
この徳川霊台入口の案内があります。
高野山の著名人の墓といえば、
奥之院への参道にあるものと思っておりましたが、
さすがに御公儀、特別待遇。
かつては聖方の本寺であった大徳院の境内で、
大徳院は元々は徳川家の菩提所・宿坊だった蓮花院。
三代家光により、初代家康、二代秀忠を祀ったもので、
落成は寛永二十年(1643)でどちらも国指定重文。




徳川家霊台家康霊屋  徳川家霊台家康霊屋近景




向かって右は「安国院殿霊廟」。
つまりは家康の霊屋。
正式な戒名は、
「安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士」
ですが、
東照大権現」の神号もある家康ですから、
霊屋の前に鳥居があります。





徳川家霊台秀忠霊屋  徳川家霊台秀忠霊屋近景




向かって左は「台徳院殿霊廟」。
要するに秀忠の霊屋。
戒名は「台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士」。
霊屋の造りに大差はありませんが、
神号がないからなのか鳥居はありません。




リーフレットの霊屋内部の写真




リーフレットによると、
どちらも内部にこんな、
絢爛豪華な厨子があるようですが、
残念ながら非公開。。。




波切不動堂  波切不動の写真





徳川家霊屋のお隣は、
別格本山・南院の浪切不動尊
全国にある数ある波切不動の総本家。
唐から帰国する弘法大師空海を、
荒波から救ったお姿で、
大師が自刻したものとか。。。





山間の抜け道



山内は「一山境内地」である高野山
今更ながらではありますが、
やはり表玄関である大門からお参りしたい。
どうやら波切不動の前から、
壇上伽藍裏に出る抜け道があるようなので、
進んでみると、驚くほどの山道で、
いきなり登山気分にビクーリ。




大門  大門と紫陽花



さて、改めまして、
やって参りましたのは、
高野山の総門である大門。
宝永二年(1705)の再建の重文。
下界より平均気温で-6℃と、
気温の低い高野山は、
まだ紫陽花が見頃デス。




中門  金堂




それではまずは根本道場である、
壇上伽藍=大伽藍をお参りします。
先ほどの大門が高野山一山の総門ならば、
この中門は大伽藍の正門です。
何度も焼失と再建を繰り返し、
現在のものは昨年、
開創1200年を記念して再建。
この門をくぐると正面にあるのが金堂で、
これが高野山一山の総本堂。
年中行事の大半がここで勤修されるそうで、
本尊の薬師如来平清盛が自ら額を割り、
その血で中尊を描かせた血曼荼羅
両部曼荼羅が祀られています。
昭和七年(1932)の再建。




六角経蔵  御影堂




六角経蔵は荒川経蔵とも呼ばれ、
平治元年(1159)鳥羽上皇の菩提を弔う為、
皇后だった美福院が紺紙金一切経と、
その納経料として紀伊国の荒川荘を寄進したとか。
ぐるりと一周回転させると、
一切経をすべて読経するのと同じ功徳。
現在のものは昭和九年(1932)の再建。
そして金堂の後ろにあるのが御影堂です。
元々は弘法大師空海が通常いらした持仏堂で、
大師入定後は、真如親王が大師の生身を描き、
大師自ら開眼とたいう御影を、
実恵僧都が安置したもの。
嘉永元年(1848)の再建。




根本大塔  根本大塔内部の写真



金堂の北東にはこの高野山の、
シンボル的存在の根本大塔。
世界の中心の象徴で、
初代は開創直後に着手され、
二世・真然の代になり完成したとか。
現在のものは昭和十二年(1937)の再建。




国宝・不動堂  





度重なる火災により、
高野山には国宝の建築物は、
実は二つしかありません。
その内の一つがこの不動堂で、
明治四十一年(1871)に現在地に、
移築したものではありますが、
承応年間(1222-1224)に、
建てられた高野山最古の建物です。





霊宝館  高野山 霊宝館の看板



さて、壇上伽藍から、
蓮池と勧学院の間を抜けて、
高野山霊宝館へ。
要するに宝物殿なんですが、
ご他聞に漏れず撮影禁止。





快慶作四天王立像の写真  重文 不動明王坐像の写真 一躯



これが国宝・重文などの指定文化財が、
なんと約28000点と驚くべくお宝の数々。
仏像も良かったなぁ〜。
もうサイコー、ヨダレが止まらない。



国宝 諸尊仏龕の写真



この国宝・諸尊仏龕や、
その他いろいろも、
高野山の至宝」展等で、
東京でお会いしたことがありますが、
やはり本場ではこの距離感と、
取り巻く空気が違います。





総本山金剛峯寺入口  南側表門




さてお次は総本山金剛峯寺です。
金剛峯寺高野山一山を指す総称ですが、
明治以降はこの座主の住寺である、
豊臣秀吉ゆかりの寺院、
元の青巖寺と、興山寺を合併して、
金剛峯寺と改称しております。
要するに高野山一山の本坊的な役割のお寺。
この正門は金剛峯寺の建物の中で一番古く、
文禄二年(1593)の再建。
昔はこの門を正面から出入りできるのは、
天皇や皇族、重職の高僧のみだったとか。



大主殿(右より)  大主殿(左より)





本堂である大主殿を左右から眺めます。
玄関が二つあり、左が大玄関で、
正門と同じく天皇・皇族、重職のみの出入可。
その右の小玄関が高野山では上綱職という、
ある程度の地位のある僧侶の出入口。
ここが現在では私ども一般参詣の出入口ですが、
一般の僧侶は裏口しか出入りが出来なかったとか。
そしてもう一つ、屋根の上にご注目ください。
檜の皮を何枚も重ねた檜皮葺の屋根の上、
よく見ると桶が置かれています。
これを天水桶といい、普段から雨水を溜め、
火災の際には桶の水をまいて湿らし、
類焼を食い止める役割を果たもの。





玄関  別殿廊下




内部は比較的写真撮影に肝要なんですが、
多くの襖絵などは撮影禁止なので、
豊臣秀次が自刃した柳の間など、
見どころはたくさんありますが、
残念ながら写真は撮影出来ません。




新別殿  お茶とお菓子の接待



昭和五十九年(1984)、大師入定1150年、
御遠忌大法会執行で、
増築された新別殿で、
お茶とお菓子の接待を頂きました。
(お菓子は食べずに持ち帰り後日父の仏壇に具えました。)




蟠龍庭  真然大徳廟





日本最大の石庭はこの蟠龍庭。
なんと広さ2340平方メートル。
以前、真然堂と呼ばれていたこのお堂は、
平成元年(1989)完成の解体修理で、
高野山二世・真然のお骨を納めた、
御舎利器が発見されて以降は、
真然廟と呼ばれています。





台所




ぐるりと建物を周遊して最後はこの台所。
実際に多くの僧侶の食事を賄ってきた場所で、
正面には台所の神様である、
三宝荒神が祀られていました。





奥之院・一の橋  奥之院案内図





さて最後は高野山の東端にある奥之院。
弘法大師空海は62歳の時、
座禅を組んだまま永遠の悟りの世界に入り、
今もこの奥之院の御廟の中で
生きていると信じられております。
食事も「生身供」と称され、
一日二回、朝六時と十時半に具えて、
衣服も一年に一度新調されるとか。
この大師の元で成仏したいという願いが、
一の橋からの約2km、
総数二十万基とも云われる、
世界最長・最大ともされる、
巨大集合墓地を形成しています。





司馬遼太郎文学碑




一の橋近くに、
最近建てられたばかりの、
司馬遼太郎の文学碑。

 高野山は、いうまでもなく平安初期に空海
がひらいた。
山上は、ふしぎなほどに平坦である。
 そこに一個の都市でも展開しているかのよ
うに、堂塔、伽藍、子院などが棟をそびえさ
せ、ひさしを深くし、練塀をつらねている。
枝道に入ると、中世、別所とよばれて、非僧
非俗のひとたちが集団で住んでいた幽邃な場
所があり、寺よりもはるかに俗臭がすくない。
さらには林間に苔むした中世以来の墓地があ
り、もっとも奥まった場所である奥の院に、
空海がいまも生けるひととして四時、勤仕
されている。
 その大道の出発点には、唐代の都城の門も
こうであったかと思えるような大門がそびえ
ているのである。
 大門のむこうは、天である。山なみがひく
くたたなずき、四季四時の虚空がひどく大き
い。大門からそのような虚空を眺めていると、
この宗教都市がじつは現実のものではなく、
空に架けた幻影ではないかとさえ思えてくる。
 まことに、高野山は日本国のさまざまな都
鄙のなかで、唯一ともいえる異域ではないか。
                     司馬遼太郎  

この文章を読んだのは、
今回が初めてではありませんが、
なるほど、この「幻影」「異域」という表現、
改めて納得させて頂きました。




武田信玄・勝頼墓地  弘法大師の腰掛け石



日本人の総菩提所とも称される高野山
最初に遭遇した戦国時代のビッグネームは、
この武田信玄・勝頼親子。
どうせ江戸時代以降の供養塔だと思っていたら、
墓石の裏を読むとなんと、
天正年間(1573-1593)の建立。
その近くには、弘法大師空海が、
休憩のため腰を掛けた石という、
言い伝えが残る「腰かけ石」。
腰をかけたの、足をおいたの、
袈裟をかけたの、槍をたてかけたの、
・・・と、この手の史跡は、
こういう場所ではお約束。




上杉謙信霊屋  伊達政宗墓




武田信玄墓からほど近く、
ちょっと入口が分かり辛いんですが、
宿敵・上杉謙信の霊屋があるのは、
何やら因縁を感じます。
伊達政宗の墓石は、
高野山奥之院で、
上位五本の指に入る、
とびきり巨大な五輪塔



石田三成供養塔  明智光秀供養塔



石田三成明智光秀が、
近くに並んでいるというのも、
何か意図があるのではないかと、
ついつい考えてしまいます。



汗かき地蔵堂  姿見の井戸



奥之院への中間、
中の橋を渡るとすぐには、
この汗かき地蔵堂があります。
この汗かき地蔵は世の人々の苦しみを、
身代わりになって一身に受けているので、
いつも汗をかいているのだとか。
またそのお堂の右側にある井戸は、
「姿見の井戸」デス。
この井戸を覗いて顔が映らなければ、
三年以内に死んでしまうのだとか。
ワタシはハッキリ写っていたので、
最低あと三年は大丈夫。
ε-(´∀`; )



密厳堂下  密厳堂


中の橋を渡り覚鑁坂を上がると、
この密厳堂があります。
多くの資料では、
「興教大師覚鑁の墓」との、
記述がありますが、
おそらくそれは間違いで、
ここは、覚鑁の住処の寺、
保延六年(1140)に、
高野山衆徒に焼き討ちされた、
密厳院の跡地のようです。




さて、話はガラリと変わりますが、
実はこの奥之院の墓地には、
浄土真宗の宗祖、見真大師親鸞と、
その師である浄土宗の開祖、
圓光大師・法然の墓があります。
一部のサイトでは、
お二人の意思に反して、
後世に勝手に建てられたもの。
と、の記述がありますが、
どうやらそれは違うようです。




熊谷直実建仁元年(1201)に、
鎌倉将軍源平両氏の戦死者大追悼会を、
この高野山で営んだ時に、
法然上人と親鸞聖人が請われて、
高野山に一夏九旬の間逗留して、
衆生済度の大願を祈求されたそうです。
法然上人は弘法大師空海と、
値遇の良縁を結ばんが為に、
末世道俗摂化の方便の元、
五輪の石塔を奥之院の畔に建立し、
自ら梵字を書して、
源空」の二字を刻んで置かれました。
法然の滅後に弟子等が遺骨の一部を、
その塔下に納め奉ったと伝えられており、
これが高野山の「圓光大師廟」となりました。
また弘長四年(1264)、親鸞の三回忌に、
親鸞の末娘、覚信尼親鸞の遺命により、
臨終の名号並びに遺骨の一部を納め、
親鸞の師・法然の流れを汲んで、
かねて手書しおかれた梵字を刻み、
石塔を建立されたそうで、
これが「見真大師墓」として残ります。



見真大師墓参道  親鸞聖人霊屋




こちらが「見真大師親鸞墓」です。
高野山では数少ない霊屋付物件ですが、
どうやら最近壊れてしまったようで、
ブルーシートに覆われていました。



親鸞の五輪塔



中を覗きこむと、
この質素な五輪塔がありました。
「某閉眼せば、賀茂河にいれて魚にあたうべし」
(私が死んだら鴨川に流して魚に与えておくれ)
と、言ったという親鸞
実際には皮肉にもここを含めて、
日本中にいくつも墓があります。



法然上人圓光大師墓所 


一方こちらが師である、
圓光大師・法然墓。
どちらも卵塔=無縫塔ではなくて、
五輪塔なんですね。
法然は武士のような力強いタイプ。
親鸞は質素でありながら、
霊屋に囲まれたものです。




重文・松平秀康及び同母霊屋



さて、こちらの奥之院で、
指定文化財はあまりありませんが、
「松平秀康及び同母霊屋」は、
珍しく石造の霊屋で、
国指定の重文です。
苔生してとても重厚で素晴らしい。



豊臣家墓地  織田信長墓所(右)、筒井順慶墓(左)



こちら金剛峯寺を庇護をした、
豊臣秀吉と豊臣家の墓地ですが、
敷地は広いものの、霊屋もなく、
なんとも裏寂しい雰囲気。
そしてそのすぐ近くある、
旧主、織田信長墓と、
これに並ぶ筒井順慶墓は、
もっと落ちぶれた印象。。。




野内匠頭墓所・赤穂四十七士菩提碑  




浅野内匠頭墓所も、
赤穂四十七士の菩提碑も、
泉岳寺ほどの注目度はなく、
多くの参詣者は素通りして行きます。



護摩堂  御廟の橋




さて、この護摩堂と御供所を過ぎ、
この御廟の橋を渡れば、
写真撮影は一切禁止。
御廟以外にも春日局供養塔、燈篭堂、
石田三成奉納の一切経堂等もありますが、
残念ながら写真は撮れません。



この橋より宮内庁管理  霊元天皇歯塔以下二十四塔



しかし、御廟からみて左側、
再び川にかかる橋を渡ると、
そこは現在、高野山からの管理を離れ、
仙陵と呼ばれる治定外墓。
ここにはお馴染みの、
宮内庁の注意書きがありますが、
撮影禁止の記述はなかったので、
図々しくも写真を撮りました。
いくつもの円墳の上に宝篋印塔があり、
霊元天皇ら九代の天皇と、
それに係る皇族方計二十四名の、
髪・爪・歯の塔が祀られています。



バスが高野山駅に到着  駅舎二階からの風景




さてさて、
奥の院前よりバスで高野山駅へ。
ここに来て昼食がまだであったことに気付きました。
次のケーブルカーが来るまでの間、
駅舎二階で森永チョコモナカジャンボを齧りつつ、
遥か下界を眺めます。
司馬遼太郎の言う通り、
まさに天空に架けた幻影。
今日は高野山に来れて本当に良かった。
南無大師遍照金剛。
南無大師遍照金剛。
南無大師遍照金剛。



帰りのケーブルカー




まだ名残惜しくもありますが、
ケーブルカーで下界に降ります。
次は是非、宿坊に泊まりたい。