祭神 菅原道真・別雷大神・蒼稻魂大神
658-0047 神戸市東灘区御影1-22-25
今朝も新大阪から、
神戸の事業所に出勤します。
今日は夕方まで新人教育に当たる予定で、
ランチはおそらく二日連続のコンビニ飯。
(T_T)
さていつも通りの早起きで出社すると、
まだ事務所の鍵が開いておりません。
仕方がないのでしばらく周辺を、
ぷらぷらとお散歩しましょう。
神戸事業所のすぐ近くに、
「御影の天神さま」とされる、
この綱敷天満神社がありました。
綱敷天満宮、綱敷天満神社といえば、
菅原道真が京から太宰府への左遷の途上、
立ち寄った場所に点在する神社で、
配流の身の菅公を案じ、
石の上に綱を敷いて、
お迎えしたという由緒があります。
京都から九州太宰府の間に、
現在もいくつか現存しています。
この朱塗りの鳥居の脇に、
石の神額がありましたが、
どうやらこれは、
阪神淡路大震災で倒壊した、
石鳥居に掲げられていたもののようです。
境内参道の西側には、
この鳥居や灯籠の一部と思われる、
石材の残骸がありました。
相当の被害であったことが分かります。
参道の中央に注連柱があり、
何やら見かけぬ物体が下がっています。
案内を読みますと少々分かり辛いですが、
要約するとこんな特殊神事のようです。
八色雷公綱打神事というもので、
綱打祭とも呼ばれ、
文治二年(1186)から続いているとか。
毎年一月八日に氏子の代表者が、
小網三十六本(閏年は三十七本)を、
十二本ずつ三束にして練り合せ、
太く逞しい大綱を作り、
注連柱に三巻半に巻くように張り渡し、
八本の白矢を突き刺して、
多くの榊葉を束ねて下に吊し、
御幣と麻緒を付けます。
大綱は龍を表し、
八本の白矢は八色雷公を意味し、
諸々の災いを除き罪穢を祓い清めます。
この注連柱全体が祓具であって、
ここを潜り抜けることにより、
一年間無病息災に暮らせるそうです。
さて、そもそもこちらは、
現在の御影山手に当たる、
天神山に祭祀されておりましたが、
中世に現代の鎮座地に遷されたそうです。
社伝では、天道根命が、
天神山に別雷神を祀るに始まり、
天津彦根命に伝えられて、
子孫代々と鎮祭したとあります。
また次に用明天皇の御代に、
聖徳太子が四天王寺建立の時に、
大和の兵衛が山城の太兵衛を伴なって、
石材を求めて当地を訪れた際に、
石屋村の祖が石匠となり、
石を切り出させたところ、
見事な花崗岩が出たので、
これを御影石と名付け、
自ら蒼稲魂を刻んで、
別雷神の社に合せ祠ったとか。
更にその後、後掘河天皇の御代、
菅公九世の孫の菅原善輝が、
太宰府の神官に任ぜられて、
筑紫に赴く途中にここを訪れ、
昔、道真公が讃岐へ下向された時や、
太宰府へ左遷された時に参拝された、
特にゆかり深き地に社殿を建立し、
綱敷天満宮と社名を定めて、
別雷神と蒼稲魂の相殿に、
菅原道真を合わせ祀りました。
そもそも天神様といえば、
火雷神を祀るもので、
後に菅原道真の怨霊によるとされる
清涼殿落雷事件を機に、
両者が結びついたという認識でしたが、
こちらの社伝は明確に分離しています。
昨日も少し触れましたが、
御影という地名の由来は、
この地の澤の井という泉に、
神功皇后が御姿を映し出したことが起源で、
これが花崗岩を御影石と呼ぶことになったとは、
掃苔家としてもとても興味深いです。