国指定特別史跡 姫路城跡
開城時間 9:00〜17:00(夏季4/27〜8/31は18:00まで・いずれも入城は1時間前迄)
入城料 大人1,000円 小人(小学生〜高校生)300円
休城日 12月29日・30日
670-0012 姫路市本町68
公式サイト http://www.city.himeji.lg.jp/guide/castle/
久しぶりに関東に戻らずに、
関西で過ごす週末の二日目デス。
今日はずっと行ってみたかった、
憧れの国宝・姫路城。
新大阪から新幹線で二駅ですが、
急ぐ旅でもありません。
神戸線の新快速に乗りました。
車窓から巨大な明石大橋が見えます。
それからほどなく姫路駅に到着。
改札はあちらこちらに、
姫路城の案内に溢れています。
つーか、それしかありません。
さて姫路駅前に降り立つと、
北の伸びるメインストリートの先には、
この堂々たる白鷺城が聳えます。
駅から10分ほど歩き、
城の表玄関である、
大手門と桜門橋前に到着しました。
これを渡り門をくぐると、
そこは、昔、御殿や屋敷があって、
本城(御居城)と呼ばれていた三の丸。
現在は巨大な芝生広場になっています。
ここから仰ぎみる天守閣がまた見事。
天守閣入場口の手前右側、
この不自然な石垣があります。
これは上山里下段と名付けられ、
現存する姫路城の石垣の中で、
その特徴からみて十六世紀後半の、
天正期に築かれた石垣なんだそうで、
つまり天正八年(1580)頃に、
羽柴秀吉によって築かれた石垣とか。
黒田官兵衛のゆかりの石垣であると、
ご丁寧に案内されておりましたデス。
またその手前にこの「天守の庭」があります。
慶長六年(1601)〜慶長十四年(1609)の築城以来、
総重量六千tともされる、
天守の重量を支えた地盤は、
徐々に沈下して礎石は高低差を生じ、
東南方向に44cm傾斜していたそうです。
そこで昭和の天守解体修理の際に、
天守基礎にはコンクリートの地盤を埋めて、
そこに柱を立てたので、、
従来の礎石は取り除かれました。
その礎石が平面展示したのがこちらなんです。
入城料を払い中に入ると、
三の丸と二の丸を隔てる「菱の門」。
これをくぐると、
昔は防火用水の役割をした、
四角い三国堀があります。
この堀の石垣をよく見ると、
V字状になっている部分に気付きます。
実はこれ秀吉の築城の頃には、
今のような捨て堀ではなく、
奥の方に続く長い堀で、
これを池田輝政が奥の方の堀を埋めてて、
今のこの四角い三国堀となったそうです。
これは石垣の隙間を埋め立てた跡なのです。
姫路城「いろは付き門」の、
一番目の「いノ門」と、
二番目の「ろノ門」です。
これらの門はわざと小さくて、
貧弱な門に見せており、
敵を油断されて直進させ、
上の狭間から矢と銃弾の雨を浴びせます。
さてとりま「ろノ門」から左へ進み、
西の丸へ。ここから見る天守も素晴らしい。
西の丸は本多忠政が、
伊勢桑名から転封された時に、
整備・拡張された曲輪で、
北側にある化粧櫓と、
櫓群を結ぶ渡櫓(長局)が残っています。
この渡櫓の城外側が、
幅一間の廊下が長さ約百二十一間、
約240mに渡って連なり、
「百間廊下」と呼ばれています。
ここにも城外に向けて、
石落としや狭間、
鉄砲の煙出しの窓など、
戦闘の施設を有していますが、
平和の世が長く続くと、
城内側は侍女達の部屋となったようです。
この化粧櫓は、あの千姫が、
本多忠刻に輿入れする際の、
化粧料十万石で、
元和四年(1618)に建てられたもので、
外観は二重二階、
内部は畳が敷かれた座敷部屋が、
三室に区分された床の間がある奥御殿。
実際、千姫は西の丸内にあった、
中書丸と三の丸脇の、
武蔵野御殿に住んでいたそうですが、
いずれも現存しておりません。
さて天守へ向かう方向に戻り、
この「はノ門」「にノ門」へ。
こちらはかなり攻略が難しそう。
ついに天守群に入りました。
大天守内の一階隅にある「筋交」。
一、二階に通して入れられた構造材で、
地震などの横の力で、
建物が押しつぶされるのを防ぐ役割とか。
天守二階から見た先ほどの、
西の丸櫓群・長局(百間廊下)と化粧櫓。
六枚の葉がデザインされた、
「六葉釘隠し」はいいんですが、
上から飛び出している数本の釘はなんだろう?
多くの「武具掛け」が大天守のいたるところにあり、
天守が武器倉庫の役割をしていたことが分かります。
大天守三階の「破風の間」は、
外から見ると入母屋風の屋根と窓の、
屋根裏・内側の部分。
格子窓の一つは、
開閉できる構造になっているとか。
大天守四階の隅には、
伏兵を配置する空間の、
「武者隠し」があり、
内部には当然狭間があります。
大天守四階はかなり広い空間があり、
鉄砲の煙を排出する「高窓(煙出し)」や、
東西に大千鳥がある為、窓の位置が高く、
その窓を利用する為の「石打多棚」があります。
さて大天守五階は、
東西二本の「西大柱」「東大柱」の最頂部。
「西大柱」については、
後ほどまた詳しく触れますが、
「東大柱」は昭和の大修理時には、
中心線から東南の方向に、
37cm傾いていたそうで、
多くの支柱を入れて補強したとか。
さてついに最上階の六階に到着。
ここには現在、元々は「との二門」と、
「との三門」の高台にあった、
姫路長壁大神と播磨富姫神を祀る、
長壁(刑部)神社がありますが、
明治十二年(1879)に一旦総社に移るも、
後にここ天守楼に勧請され、
明治十五年(1882)の城内備前屋敷の火災や、
昭和二十年(1945)の大空襲の際にも、
大天守最上階に落ちた、
焼夷弾が不発弾となる霊験もあり、
今も人々の信仰を集めています。
さてまた最上階六階には、
実は壁面すべてに窓を開ける設計だったようで、
築城途中で変更されて、
四隅に塞いだ「幻の窓」があります。
大天守最上階、
東西南北の窓から、
それぞれの眺望です。
さすがは天を突くような、
威風堂々とした天下の名城・姫路城。
この国宝・世界遺産が、
戦火で焼失しなかった奇跡に感謝します。
さて大天守から外に出ようと、
地階に降りました。
ここには二か所の「厠」があり、
それぞれ三つの便座があって、
下には備前焼の大甕が埋められていたものの、
実際に使用した形跡はなかったとか。
籠城用のものだったのでしょう。
また具体的な用途が不明な、
この中央部に水を集めて、
北側の内庭に排出する「流し」もあります。
さて大天守閣から外に出て、
本丸(備前丸)のあった広場から、
改めて大天守・西小天守を仰ぎ見ます。
ここからの角度は迫力が満点。
さてこの備前門の周囲の石垣には、
この長い直方体の石がいくつかあります。
これ、実は古墳の石棺で、
築城に際して石を調達する為、
姫路周辺の古墳がいくつも破壊されたのです。
・・・ったく、ひでぇーな。
Σ( ̄Д ̄ )
栃木の壬生城にも、吾妻古墳を破壊して、
玄門石と天井石を庭石にした例もありますが、
それどころぢゃない豪快なバチ当たりっぷり。
二の丸のこの井戸には、
お菊井戸と名付けられ、
「播州皿屋敷」の伝説と、
無理矢理に紐づけたようですけれど、
そもそも江戸では「バン」と同じ音の、
「番町皿屋敷」があるように、
あれは全くのフィクションです。
ひょっとすると、
姫路にそのモデルとなった、
事件があったのかもしれないけど、
いっくらなんだって、
城内本丸下のこの井戸に、
死体を投げ込んだら大変なこと。
修復中の「りの一渡櫓」ですが、
工事の様子を覗き見れるようになっています。
ここになんでか歴代の鯱が展示されていました。
「ぬの門」をくぐると正面にこの「扇の勾配」。
まるで開いた扇の曲線のように反り返る石垣です。
さて入城口を出ると、
来た時には気付かなかった、
旧西大柱の展示の案内がありました。
昭和大修理の際に、
芯から腐っていて、
再利用が不能であると判断された為、
取り替えられた旧西大柱が展示されていました。
先ほど大天守五階で見た西大柱は、
その時に取り換えられたものだったのです。
新柱の巨木探しにはかなりの苦労があったようです。
詳しくはこちらのリンクをご覧下さい。
→ 朝日新聞デジタル:継いだ「運命の木」 姫路城・西大柱 - 兵庫 - 地域
さらば、姫路城。
今日は本当にここに来て良かった。
この国の宝、世界の遺産が、
いつまでもいつまでも、
次の世代、また次の世代へと、
継承されることを心から願います。