祭神 護国の英霊約7万3千11柱
605-0861 京都市東山区清閑寺霊山町1
公式サイト http://www.gokoku.or.jp/
今ではそれが司馬遼太郎の創作と知りつつも、
ワタシが歴史を好きになったきっかけとなり、
最初に大好きになった幕末の志士は、
かの坂本龍馬に他なりません。
長く墓を巡る掃苔を続けておりますが、
いつかは訪れてみたいと、
もう何年も前から課題にしていたのは、
坂本龍馬・中岡慎太郎、
そして木戸孝允夫妻の墓がある、
京都霊山護国神社です。
そもそもこちらは、
文久二年(1862)、
時衆霊山派正法寺の朱印地で、
神道葬祭場霊明社における、
有志者による、
神葬祭が行われたのが起源で、
慶応四年(1868)、明治天皇が、
志士達の御霊を奉祀する為、
ここ霊山に佳域社を創建せよとの、
詔・御沙汰によるものです。
これに感激した公家や、
山口・高知・福井・鳥取・熊本等の諸藩が、
霊山の山頂にそれぞれの祠宇を、
建立したのが創建の始まりで、
靖国神社よりも古い歴史を持つ招魂社です。
坂本龍馬と中岡慎太郎は、
その勅・御沙汰の前年の、
慶応四年(1868)に暗殺され、
龍馬は死の三日後に(中岡は二日後に)、
この地にひっそりと土葬で埋葬されました。
百円玉を三枚投入すると開く、
コイン式自動入場口で、
墓地へとお参りをいたしましょう。
石段を上がるとまずは、
墓地全体の歴史説明と思われる碑があります。
広い墓域、まず最初にあるのが、
明治天皇の勅・御沙汰の前に、
ここに葬られた坂本龍馬、
中岡慎太郎の墓所です。
向かって右が中岡慎太郎、
左が坂本龍馬の墓石。
揮毫は後の木戸孝允こと桂小五郎。
二人の墓石の左手少し低い場所に、
近江屋で二人の暗殺直前に、
背後から斬られて亡くなった、
用心棒兼世話役の、
元力士・山田藤吉の墓もあります。
二人の功績を称えて陵内に建つ銅像は、
とても小さなものですが、
京都の町を見下ろして、
爽やかな笑顔を浮かべた印象的な銅像です。
この神社には坂本・中岡の他に、
幕末勤王の志士1,356柱と、
明治以降の戦死者を合わせて、
約73、000柱が祭神として祀られおり、
墓所にもこの通り、
志士の墓石が386名分が建っておりますが、
おそらく遺骨の入っている墓は、
坂本龍馬・中岡慎太郎、
山田藤吉の墓の他は、
一ヶ所、二名のみとなります。
この大村益次郎の墓も、
久坂玄瑞・来島又兵衛・高杉晋作の墓も、
遺骨のない供養塔である招魂墓です。
他に確実に遺骨が納まっているのは、
この木戸孝允夫妻の墓所になります。
中央、大きな墓石は、
当然、木戸孝允(桂小五郎)の墓石。
向かって左には、
芸妓・幾松から正妻となった、
木戸松子の墓があります。
境内に明治維新関係の資料を展示する、
博物館「霊山歴史館」がありますが、
残念ながら時間の都合で泣く泣くスルー致しました。