成田山東京別院 深川不動堂 その六 〜石造燈明台〜

宗派 真言宗智山派
本尊 不動明王
135-0047 江東区富岡1-17-13
公式サイト http://www.fukagawafudou.gr.jp/




成田山東京別院 深川不動堂 その → 






成田山深川不動堂  本堂




さて成田山東京別院深川不動堂
実はワタシは近くに来れば、
ふらりと立ち寄って、
何度もお参りをしておりますが、
母は三年数ヶ月ぶりの参拝。
父を突然癌で亡くして、
半年余り過ぎた頃に、
仏壇の本尊を探す名目で、
ワタシが気晴らしに、
ドライブに誘って、
ここへお参りに連れて来た時、
護摩のあまりの迫力と荘厳さに、
涙が出るほど感動していたんだとか...。








ワタシもここの護摩と読経、
そして法螺貝に太鼓、
大好きだなぁ...。
自分の中の江戸っ子のDNAが、
魂を揺さぶられるのかもしれない。




さて何度か触れておりますが、
元々ここは成田山新勝寺の、
東京別院という扱いではなく、
富岡八幡宮別当の、
永代寺で行われた、
「成田不動出開帳」が、
深川不動堂の始まりになります。
神仏分離で永代寺は廃寺となり、
旧境内は、深川公園となりますが、
江戸っ子たちの不動尊信仰は、
全く止むことがなく、
明治十一年(1878)、
成田不動の分霊を祀り、
深川不動堂」として存続することが、
東京府により認められたものが、
この成田山東京別院深川不動堂なのです。





石造灯明台





説明版

江東区指定有形文化財(建造物)
石造燈明台 明治三十一年在銘 一基
      富岡一−一四 深川公園

 日清戦争(一八九四〜九五)の勝利を記念して、深川不動堂の境内南
東地に建てられました。明治二八年一二月に起工し、三一年七月に竣
工しました。高さ八三九.四cm、最大幅三七三.四cmの大きな燈明台で、
内部煉瓦造り、外壁には安山岩の石板が貼られています。設計及び
監督技師の佐立七次郎(一八五六〜一九二二)は、工部大学校造家学科
(現東京大学工学部)の第一期生でジョサイア・コンドルに師事した日
本近代建築家の一人です。成田山新勝寺にもほぼ同形状の燈明台(明治
二七年竣工)が現存します。
 外壁には奉納者・奉納団体が刻まれた石板が三五九点貼られていま
す。奉納者には「団菊左時代」を築いた九世市川団十郎、五世尾上菊五
郎、初世市川左団次をはじめとする歌舞伎役者や常磐津などの芸能界、
土木実業組合や東京石工組合、東京株式取引所などの実業界、また魚
河岸、船頭、吉原・洲崎の遊郭や割烹料理屋などがみられ、深川不動
堂が幅広い人々によって信仰されていたことがうかがえます。竣工当
初は上部に八角の火袋がありましたが関東大震災により倒壊しました。
平成一九年度に区指定有形文化財に指定され、平成二十年に現在地に
移設されました。
 平成二十一年九月 江東区教育委員会


明治の江戸っ子たちが、
いかにこの深川不動を、
篤く信仰していたかというとことは、
この灯明台の案内の通りです。


→ 【江戸六地蔵旧第六番】大栄山 金剛神院 永代寺 その二 - 元・【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】




明治二十九年(1896)には、
旧・永代寺の塔頭吉祥院が、
永代寺の名称を引き継ぎ、
現在深川不動堂参道にある、
現・永代寺となりますが、
これを母に説明していると、
かつてここにあった、
江戸六地蔵の話になりまして、
まるで知らないようなので、
ここから一番近い、
現存する六地蔵の一体を、
案内することになりました。