西國三十三所順打ち巡礼記

旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

秩父三十四ヶ所観音霊場と日本百観音について

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→ 秩父三十四ヶ所自転車巡礼準備中





いよいよ明日に迫った、
念願の自転車による、
秩父三十四ヶ所観音霊場巡礼。
前日の荷造りをしつつ、
さて、いざ準備万端と、
指差確認をしておりましたら、
あんれまぁ、御朱印代(納経代)の、
小銭の両替を忘れていたっす...。





御朱印代(納経代)






あれやこれやと飛び回り、
どうにか小銭を用意を致しました、
300円×34枚=10,200円の百円玉。
よっしゃー、これにて、
ホンマに用意完了やで...。
・・・知らんけど。





・・・そやけど、
ほな、そもそも、
秩父三十四ヶ所」
・・・ってなんやねんな?、
という、質問があったもんで、
改めて「日本百観音」と、
秩父三十四所観音霊場」について、
簡単に説明致しまっせ。



そもそも日本における、
最古の巡礼霊場であり、
観音巡礼の元祖であるのは、
西国三十三所観音巡礼です。
養老二年(718)、
大和長谷寺の徳道が亡くなり、
地獄で苦しむ亡者の姿を見ました。
徳道は、閻魔大王から、
観音巡礼をすれば、
地獄に堕ちないという誓願を得て、
三十三の宝印を受けます。
生き返った徳道は、
巡礼の功徳を説こうとしますが、
まだ機が熟しておらず、
その宝印を中山寺に納めました。
更に時は過ぎ永延二年(988)、
花山法皇熊野権現の神託により、
河内石川寺の仏眼を先達とし、
性空とともに観音巡礼を復興したのが、
この西国三十三所観音霊場となります。
西国三十三観音巡礼の信仰が、
やがて鎌倉幕府の成立とともに、
坂東=関東に及び、
新たに札所が形成されていきます。
直接の契機は鎌倉将軍家の、
深い観音信仰にあったされ、
すなわち源頼朝が、
将軍であった(1192-1199)頃に、
その気運が起こり、
源実朝の治世(1203-1219)に機が熟して、
札所が制定されたという説が一般的な説。
第一番は鎌倉の杉本寺で、
鎌倉・相模、武蔵に札所が多く、
ぐるりと坂東=関東各国を巡って、
安房・館山の郡古寺が打ち納めとなる、
この坂東三十三観音霊場
その全行程に障害なく、
巡ることが出来るということは、
鎌倉幕府の確立を証明しているとか。
さてその後の文暦元年(1234)。
これはあくまで伝承ですが...、
閻魔大王、倶生神、山法王、
性空、医王、白河法皇、徳道、良忠、
通観、善光寺如来妙見大菩薩
蔵王権現熊野権現の十三権者が、
秩父の魔を破って、
巡礼したのが始まりという、
秩父音霊場。
現存最古の記録は、長享二年(1488)の、
法性寺蔵「秩父観音札所番付」で、
それには大棚観音がない三十三所で、
番付は定林寺から始まっていて、
現在の秩父市中心部のみになっているとか。
十五世紀の初め、室町時代に、
大棚観音が加わって三十四所となり、
既存の東西観音霊場の、
西国・坂東それぞれの三十三所と併せて、
日本百観音巡礼に至ったとされています。
今昔物語集」巻第十六の、
「仕観音人行竜宮得富語第十五」に、
「此ノ男毎月ノ十八日ニ持斉シテ、
殊ニ観音ニ仕ケリ。亦、其ノ日百ノ寺ニ詣デヽ、
仏ヲ礼シ奉ケリ」と記されていて、
平安時代には京都に百観音巡りの思想が、
すでにあったことを示しています。
長野県佐久市鳴滝の岩尾城跡の、
大永五年(1525)の石碑には、
秩父三十四番 西國三十三番 坂東三十三番」
と、彫られており、
これ以前に日本百観音巡礼が、
すでに存在していたことが証明されています。
とにかくこの西国、坂東、秩父の、
百観音をすべて巡るということは、
とても凄んごいことなのでございます。





結願之証





さて、ワタクシは、
坂東三十三ヶ所音霊場は、
七年前にすでに、
順打ちではございませんが、
結願は致しております。





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西国三十三ヶ所観音霊場は、
また発願すらしておりませんが、
すでにいくつかの札所にお参りし、
いつかは四国八十八ヶ所と同様に、
巡拝する所存でございます。





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・・・てな訳で、
明日より二泊三日で、
順打ちで巡ろうとしておりますのが、
この秩父三十四ヶ所観音霊場なのでございますよ。
お分かりいただけましたでしょうか!?