渡岸寺 観音堂 (慈雲山 向源寺 飛地境内)

宗派 真宗大谷派
本尊 阿弥陀如来
529-0233 長浜市高月町渡岸寺50







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雨が強まる  滋賀県に入る




台風の影響で時折強い風雨の中、
10時45分に滋賀県に入りました。





高月町観光案内図  観音堂参道





さてまずは北陸道木ノ本ICで下りて、
我が愛しの国宝・十一面観音様に、
十二年前上野でお逢いして以来の再会です。
風は強いですが雨は止んでいました。
高月町の慈雲山・向源寺飛地境内、
渡岸寺・観音堂を目指します。




慈雲山 向源寺  





慈雲山・向源寺飛地境内(渡岸寺・観音堂)と、
なぜこんなにややこしい、
名称なのか説明を致します。
写真は観音堂参道の途中にある、
慈雲山・向源寺の本堂。
そもそもこのお寺の起源は、
天平八年(736)、
都に疱瘡が流行した際に、
聖武天皇が泰澄に祈祷を命じ、
泰澄は十一面観世音を彫って、
光眼寺を建立します。
延暦九年(790)
最澄が七堂伽藍を建立しました。
しかし元亀元年(1570)、
浅井・織田の戦火のために堂宇は焼失。
十一面観音を篤く信仰する、
当時の住職・巧円や近隣の信徒は、
観音様を土中に埋蔵して難を逃れたとか。
この後、巧円は浄土真宗に改宗し、
光眼寺を廃寺として向源寺を建立。
明治三十年(1897)十一面観音像は、
(旧)国宝に指定されます。
しかし浄土真宗阿弥陀如来以外の仏像を、
本堂に祀ることを認めていない為、
向源寺飛地境内の観音堂に祀るということで、
本山・東本願寺から許可を受けて、
大正十四年(1925)観音堂が再建。
昭和十七年(1942)、
宗教団体法の規定に基づき、
向源寺飛地境内観音堂は、
正式に向源寺の所属となりました。
そして昭和二十八年(1953)に、
十一面観世音は文化財保護法に基づく、
(新)国宝に指定されます。
昭和四十九年(1974)、
慈雲閣(収蔵庫)が完成してからは、
国宝・十一面観音像と、
胎蔵大日如来坐像はそこに移され、
高月町国宝維持保存協賛会の理事が、
毎日交替で維持管理に当たっているとか。
大人の事情、
お分かりいただけましたでしょうか。




渡岸寺 観音堂  仁王門





さてこちらがその渡岸寺観音堂
仁王門の阿吽の木造金剛力士立像は、
滋賀県指定有形文化財





観音堂  慈雲閣(収蔵庫)





現在、観音堂の中央本尊は、
真宗大谷派に対する忖度なのか、
やはり滋賀県指定有形文化財の、
木造阿弥陀如来坐像です。
慈雲閣(収蔵庫)はこの本堂の左手に、
渡廊下でつながってあります。
ここにお目当ての、
国宝・木造十一面観音立像と、
重文・木造大日如来坐像がおわします。





向源寺(渡岸寺観音堂)十一面観音菩薩立像  向源寺(渡岸寺観音堂)十一面観音菩薩立像





トウチャコ時、
観光バスで「女性の会」との、
団体客がわんさと拝観しておりまして、
圧倒されてしまいましたが、
彼女たちが嵐のように去った後は、
完全に貸し切り状態で、
しばし見惚れ続けたワタシ。




向源寺(渡岸寺観音堂)十一面観世音菩薩




十二年前、上野の東博で、
二時間以上見つめ続けて、
係員に「いい加減にしてください」
と、怒られたワタシ。
今回ももしゾウがいなければ、
二、三時間は見つめ続けていたでしょう。
嗚呼、本当に美しい観音様です。




暴悪大笑面




ホームではおそらく後ろには回り込んでは、
拝観出来ないであろうと想像していましたが、
ぐるりと周囲を回るとこが出来る展示なので、
この後頭部の「暴悪大笑面」など、
ゆっくりと見つめ続けました。
横から見ると意外に二の腕が太いのは新発見。
衆上を救う為の力強さなのかもしれません。





購入したポスター2枚と写真集  ポスター2枚





売店では写真集と、
ポスターを二枚購入しましたが、
当然ながら握手券は、
ついておりませんでした。
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