「評伝 関寛斎 1830-1912 極寒の地に一身を捧げた老医」(藤原書店)

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さて今日はちょっと、
バタバタと致しまして、
珍しくランチを抜きました。
てな訳でいつもの貯金の読書ネタです。














高田郁著「あい ─永遠に在り」を読んで、
関寛斎プチマイブームが到来ちう。
昨日はご存知の通り、
東金のゆかりの地を巡りましたが、
実はその前に、蔵書の司馬遼太郎著、
胡蝶の夢」を読み返すと同時に、
関寛斎の生誕190年を記念して、
昨年五月に刊行された、
この本を購入して読んでおりました。




佐倉順天堂に学んで医師として頭角を現し、徳島藩典医に抜擢されるも、惜しげもなくその地位を去り、一介の町医者として市井の人びとに尽くす。さらに晩年には、平等社会の実現を志して、北海道・陸別の極寒の原野の開拓に身を投じた無私の人、関寛斎(1830‐1912)。徳冨蘆花司馬遼太郎らも注目したその波瀾の生涯と不屈の信念を、多くの史資料および現地探訪に基づいて描いた決定版評伝。


妻あいの視点から、
あくまで作者の想像によって描かれた、
小説「あい 永遠に在り」とは異なり、
史実とされる資料や取材に基づいた、
ノンフィクション、
ドキュメンタリーになります。
著者が北海道出身ということもあってか、
全頁の後半1/2以上を、
北海道開拓の話が占めます。
また残りの前半1/2の後半3/4が、
戊辰戦争での活躍になります。
しかし関寛斎の人生を通じての、
貧しくとも"頑な"なまでに、
「志の高潔さ」を貫く精神は、
最初の師である養父・関素寿の、
教育によるものであることが分かり、
また寛斎の子供達も、
父の教育を通して、
その"頑な"を受け継ぎ、
結果的にはその"頑な"が、
親子の軋轢を生みます。
私がなぜか真っ先に思い出したのは、
吉田松陰とその叔父であり、
最初の師であった玉木文之進でした。
徹底した高潔さを叩き込まれて、
ある意味同じ万民平等を唱えますが、
松陰もその"頑な"な高潔を貫いたことで、
若くして死招き亡くなりますが、
寛斎は長生きをして、
子を沢山成したことで、
晩年苦悩することとなります。
寛斎は水浴びを日課として、
日々の鍛錬を推奨しますが、
人生そのものがそんな、
冷水を求めて浴び続ける、
鍛錬の人生そのものでした。
司馬遼太郎は、寛斎を、
「高貴な単純さ」
「神に近いほどに単純」
と、評していますが、
私にはどうもそうとは思えません。
幼き頃に生母が亡くなり、
実父から生家を追われて、
肉親の愛情を求めていることや、
立身出世を潔しとせずに、
"頑な"に無私利他を貫く姿は、
神というよりは、
どこか痛々しく、
悲壮に思えてならないのです。
結果的に現代では、
寛斎が最も嫌った神格化がなされ、
ゆかりの地の各所で、
顕彰がなされていますが、
寛斎は本当にそれを、
望んでいなかったのだろうか?
生前、妻あいのことを聞かれると、
「婆はわしより偉かった」
と答えたという寛斎。
私はこの言葉の裏に、
本当は「偉い」と褒められたい、
寛斎の本音が、
隠れているような気がします。