宗派 天台宗単立
本尊 千手観世音菩薩
ご詠歌 野をもすぎ 山路にむかふ 雨の空 善峯よりも 晴るる夕立
610-1133 京都市西京区大原野小塩町1372
公式サイト http://www.yoshiminedera.com/
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さて、第十九番・革堂から、
次の第二十番・善峯山は、
京都市の西方の西山と呼ばれる、
峰々の中腹にあります。
本日初めての山道を上りまして
午後1時近くなって、
お寺の有料駐車場に到着しました。
駐車場から石段を上り、
この東門をくぐり境内へ。
山門は仁王門で、
正徳六年(1716)の建立。
この門が拝観受付になっています。
さて、こちらの歴史ですが、
長元二年(1029)、恵心僧都源信の弟子の、
源算が自刻の千手観音像を本尊として創建。
長元七年(1034)に、
後一条天皇により勅願所に定められ、
良峯寺の寺号を賜ります。
長久三年(1042) 、後朱雀天皇の命で、
鷲尾寺にあった千手観音像を遷して、
新たな本尊としています。
建久三年(1192)、慈円が住持したことから、
後鳥羽天皇直筆の寺額を賜って、
寺号を善峯寺と改めます。
こちらもやはり応仁の乱に巻き込まれて、
伽藍の大半が焼失しました。
江戸時代になって徳川綱吉の生母、
桂昌院が大檀那となって、
現存する伽藍の大半が再建されます。
ん?
って、この歴史でわかる通り、
このお寺は、花山院が崩御した、
寛弘五年(1008)以降の創建なんです。
養老二年(718)に徳道が、
三十三の宝印を授かり、
その約270年後に、
花山院が中山寺で、
宝印を探し出すという伝承に、
矛盾が生じてしまうのです。
本堂である観音堂は、
元禄五年(1692)、桂昌院による建立。
こちらで御朱印を頂戴しました。
鐘楼も貞享三年(1686)の桂昌院建立。
梵鐘は徳川綱吉の厄年に寄進さたことから、
厄除けの鐘と呼ばれています。
日本一の松と称する、
遊龍の松は国指定天然記念物で、
全長37m、樹齢600年以上。
安政四年(1857)に花山院家厚によって、
「遊龍」と命名されました。
標石は明治二十六年(1893)、
陸軍中将鳥尾小弥太筆。
遊龍の松の前の多宝塔は重要文化財で、
元和七年(1621)に賢弘により再建。
山内最古の建物で本尊は愛染明王。
遊龍の松の先の護摩堂も、
元禄五年(1692)、
桂昌院による建立で、
本尊は五大明王です。
遊龍の松の脇から見る景色が最高。
大檀那、桂昌院の墓、
桂昌院廟は宝永二年(1705)の建立。
本当の墓所は芝増上寺にありますが、
京都にも墓をつくってほしいという
本人の希望で遺髪を納めています。
釈迦堂は珍しく明治十八年(1885)の建立です。
この「善峯寺歴代親王廟」は、
現在宮内庁の管理下にあるそうですが、
鳥羽天皇皇子・覚快法親王、
後鳥羽天皇皇子・道覚法親王、
亀山天皇皇子・慈道法親王、
伏見天皇皇子・尊円法親王
後伏見天皇皇子・尊道入道親王等の、
墓があるそうです。
さて、時刻は午後1時半近く、
この後はどうしましょう。
次の第二十一番・穴太寺は、
京都府ですが亀岡市。
ちょっと遠いです。
もう一泊するつもりでしたが、
台風も心配なので、
今回はこれで帰りましょうか。
午後2時過ぎに草津PA上りで、
最後のお土産を購入し、
遅いランチを食べましょう。
もうここは滋賀県ですが、
京風ラーメンと、
京風九条ネギたこ焼きで、
最後の関西の味に舌鼓。
二回目の休憩は、
新東名の清水に立ち寄りました。
この前後は線状降水帯に突っ込みまして、
自動運転が解除されるほどの豪雨。
おまけに東名は一日
秦野中井IC → 厚木ICが通行止めで、
下道で西湘二宮ICへ。
船橋市内の実家に着いたのは、
午後9時過ぎになってしまいました。
さて、今回の全走行距離は1729km。
最終日の今日は593kmでした。
とっても充実した、
素晴らしい四泊五日だったなぁ。
【5日目行程593km】
【4日目・行程95km】
【3日目行程・17km】
【2日目行程・185km】
【初日行程・839km】
さて、残りの第二十番から第三十三番と、
残りの番外一ヶ所はいつになるだろう。
来年の夏になるか、
それとも新幹線を使って、
レンタカーで回るか。
いろいろ思案しております。