宗派 天台宗
本尊 千手観世音菩薩
ご詠歌 慈恩寺へ 詣でる我が身も たのもしや うかぶ夏島を 見るにつけても
339-0009 岩槻市慈恩寺139
公式サイト http://www.jionji.com/
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さて、吉見百穴を午後2時に出発し、
川島ICで圏央道に乗りまして、
久喜白岡JCTで東北道に乗り継いで、
蓮田SAのスマートICで降りまして、
午後2時45分に岩槻の慈恩寺の、
無料駐車場に到着しました。
コチラは15年2ヶ月27日前に、
次男と二人でお参りして以来、
二度目の訪問になります。
この山門は元禄四年(1691)の建立とか。
天長年間(824-834 )、
慈覚大師円仁の開山・創建。
天正十八年(1590)に、
関東に入部した徳川家康から、
翌天正十九年(1591)に、
寺領を寄進されています。
慈恩寺という寺号は、
慈覚大師円仁が唐に渡り、
首都長安(現・西安)の大慈恩寺で、
学んだことにあやかっているそうです。
その大慈恩寺は玄奘三蔵が、
天竺から仏典を持って戻り、
漢訳したをお寺です。
華林山という山号ですが、
慈覚大師円仁が日光からの帰途に、
「仏教弘通の霊場あらば示し給え」
と、李の実を投げたところ、
この地に落ち一夜にして、
華を咲かせ実を実らせたとか。
初めの本尊はこの円仁が、
刻んだものだったようですが、
後に焼失して現在の観音様は、
慈眼大師天海が納めたものとか。
さいたま市指定文化財の、
慈恩寺文書の案内があります。
コチラには岩槻城主太田資正の、
天文十八年(1549)の判物以下、
518点の古文書が伝えられています。
前回気がつかなかった、
かなり立派な藤棚があります。
聖徳太子堂と忠魂碑が二つ。
太子堂内には、
石造聖徳太子立像があります。
忠魂碑は左が、
靖国神社宮司筑波藤麿書、
右は乃木希典書。
墓地手前には、
石仏、宝篋印塔、
卵塔など石仏群が並びます。
この開山堂は、
慈覚大師円仁像を安置。
季節柄か、
慈恩寺菊花会が行われていました。
南蛮鉄燈篭は、
天正十七年(1589)の銘。
岩槻城主太田氏房の家臣、
伊達房実より寄進された鉄灯籠で、
さいたま市指定文化財。
この当時銅よりも鉄が高価だったとか。
金銅製阿弥陀如来坐像は、
宝永七年(1710)の銘で、
天和二年(1682)の江戸大火、
八百屋お七の火事で亡くなった人々の、
供養のために造られたとものとか。
本堂である観音堂は、
天保七年(1836)に焼失したのを、
天保十四年(1843)に再建したもの。
寄棟造りでしたが、
昭和十二年(1937)に改修して、
入棟造りとなっています。
日中戦争時の昭和十七年(1942)、
日本軍が南京で発見した玄奘の頭蓋骨。
日中で分骨されることになり、
最初は芝増上寺に安置されました。
空襲の拡大から一時的に、
埼玉県蕨市三学院に移されますが、
後に慈恩寺に疎開させます。
戦後正式に慈恩寺に奉安されて、
昭和二十八年(1953)年に、
この「玄奘塔」が落慶します。
昭和味三十年(1955)には、
台湾の玄奘寺、
昭和五十六年(1981)年には、
奈良の薬師寺にも分骨されています。
昭和六十一年(1986)、
関東ガス株式会社、
代表取締役社長、
生井忠信氏と、
上野設備株式会社、
代表取締役社長、
上野三男氏により建立された、
顕徳之碑。
最後に改めて、
玄奘三蔵天竺求法像の背後に建つ、
玄奘塔を仰ぎ見ます。
最後に改めて、
玄奘塔入口にある、
石灯籠を調べてみると、
「武州東叡山文恭院殿尊前」
と、刻まれています。
秩父三十四所の多くに、
芝増上寺の徳川将軍墓の、
石灯籠が移設されていましたが、
これも元々は寛永寺の、
徳川家斉の墓前にあったものです。
増上寺は空襲により、
徳川将軍家の墓地が、
コンパクトに一ヶ所に、
まとめられた経緯がありますが、
寛永寺の徳川将軍家墓地は、
今もそのままあるはず。
一体どういった経緯で、
何故ここにあるのか、
とても不思議です。
【後日追記】
寛永寺の徳川歴代将軍御霊廟も空襲を受けて、
勅額門と水盤舎、宝塔の一部等を残し、
やはりほとんどが焼失したそうです。
その石灯籠移設の歴史は増上寺と同様でした。
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— ボン爺@makotojinrei (@makotojinrei) 2025年11月16日
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