司馬遼太郎, 碑 の検索結果:

関寛斎之像 その二 ~2泊5日 北海道ソロツーリング 三日目-③~

…れた碑が並びます。 司馬遼太郎の碑もありました。 資料館にも司馬のコーナーがありましたが、 司馬が描いた人々のゆかりの地に、 司馬の文学碑は珍しくありません。 → 「司馬遼太郎 碑」関連の記事 次の記事 ↓ rakuten_design="slide";rakuten_affiliateId="119e135f.4fb60b44.119e1360.ea09817c";rakuten_items="ctsmatch";rakuten_genreId="0";rakuten_si…

「胡蝶の夢」【一〜四】(新潮社文庫)

…れと同時に、 蔵書の司馬遼太郎著「胡蝶の夢」 全四巻文庫を読み直しました。 胡蝶の夢(一)(新潮文庫)作者:司馬 遼太郎新潮社Amazon胡蝶の夢(二)(新潮文庫)作者:司馬 遼太郎新潮社Amazon胡蝶の夢(三) (新潮文庫)作者:遼太郎, 司馬新潮社Amazon胡蝶の夢(四) (新潮文庫)作者:遼太郎, 司馬新潮社Amazon胡蝶の夢(一)~(四) 合本版作者:司馬 遼太郎新潮社Amazon 何度か書いておりますが、 私が歴史好きになったきっかけは、 中学生の頃に読んだ、…

「評伝 関寛斎 1830-1912 極寒の地に一身を捧げた老医」(藤原書店)

…実はその前に、蔵書の司馬遼太郎著、 「胡蝶の夢」を読み返すと同時に、 関寛斎の生誕190年を記念して、 昨年五月に刊行された、 この本を購入して読んでおりました。 評伝 関寛斎 1830-1912 〔極寒の地に一身を捧げた老医〕作者:合田 一道発売日: 2020/05/27メディア: 単行本評伝 関寛斎 1830-1912 極寒の地に一身を捧げた老医 [ 合田 一道 ]価格: 3080 円楽天で詳細を見る 佐倉順天堂に学んで医師として頭角を現し、徳島藩典医に抜擢されるも、惜し…

安立山 常覺寺 (関寛斎の養父素寿の碑と関家・君塚家の墓) ~東金・関寛斎ゆかりの地探訪ツーリング④~

…の最初の師であり、 司馬遼太郎のいう、 「高貴な単純さは神に近い」 寛斎の人格は、 この師の影響によるものです。 この「関素寿之碑」は、 明治三十年(1897)に、 門下生27人が建てたもので、 題額の書は寛斎が仕えた、 徳島藩第十四代の、 最後の藩主である蜂須賀茂韶。 撰文は寛斎が学んだ、 佐倉順天堂を継いだ、 二代目、佐藤尚中(舜海)。 関素寿之碑の向かって右にある、 関俊輔の墓石「素寿関翁之墓」には、 明治四年辛未四月 二十六日卒 養子寛建 と、ありますから、 寛斎の建…

関寛斎翁之像 ~東金・関寛斎ゆかりの地探訪ツーリング①~

…本 蔵書にあった、 司馬遼太郎「胡蝶の夢」 を、読み直すと同時に、 生誕150年を記念して刊行された この「評伝・関寛斎」等を購入し、 毎日読み漁っておりますが、 それらの感想はまた改めて後日。 今日は夕方から、 天気が崩れるそうなので、 チャリは止めておきまして、 ちょっくらPCX150で、 関寛斎夫妻の故郷、 東金のゆかりの地を、 探訪してみようと出発しました。 まず最初にやって来たのは、 元は東金小学校だったという、 東金中央公園です。 この東金中央公園のど真ん中に、 …

「あい ─ 永遠に在り」(ハルキ文庫)

…ポンぺに学ぶ姿は、 司馬遼太郎の、 「胡蝶の夢」にも登場します。 司馬は、寛斎を、 「高貴な単純さ」 「神に近いほどに単純」 と、評していますが、 あくまで「胡蝶の夢」の中では、 主要人物ではありましたが、 主人公ではありませんでした。 寛斎は長崎遊学後一旦銚子に戻るも、 その後は徳島藩に出仕し典医となります。 藩主・蜂須賀斉裕の死を看取り、 戊辰戦争では官軍の、 奥羽出張病院長として活躍するも、 再び徳島に帰り士籍を返上して、 一町医者として尽力。 晩年の明治三十五年(19…

「大獄 西郷青嵐賦」(文春文庫)

…のリンクの他にも、 司馬遼太郎、海音寺潮五郎と、 何作も読み漁りましたが、 結局は謎を多く残したままです。 この作品は、 島津斉彬に見いだされた青年期から、 幕末前期に志士と交わり名を馳せて、 安政の大獄での挫折までを描いた作品。 やはり西郷の謎が解ける訳ではありませんが、 司馬や海音寺作品にはない、 西郷の内面や葛藤が描かれています。 おそらくサブタイトルの、 「青嵐賦」からしても、 続編を書こうとしていたものと思われます。 しかしそれは残念ながら叶いませんでした。天翔ける…

京都霊山護國神社 〜坂本龍馬・中岡慎太郎・木戸孝允墓 / 坂本龍馬・中岡慎太郎像〜

…jp/ 今ではそれが司馬遼太郎の創作と知りつつも、 ワタシが歴史を好きになったきっかけとなり、 最初に大好きになった幕末の志士は、 かの坂本龍馬に他なりません。 長く墓を巡る掃苔を続けておりますが、 いつかは訪れてみたいと、 もう何年も前から課題にしていたのは、 坂本龍馬・中岡慎太郎、 そして木戸孝允夫妻の墓がある、 京都霊山護国神社です。 そもそもこちらは、 文久二年(1862)、 時衆霊山派正法寺の朱印地で、 神道葬祭場霊明社における、 有志者による、 神葬祭が行われたの…

吉良邸跡 〜墨田区立本所松坂町公園〜

…磨 → 大村益次郎・司馬遼太郎 → 松尾芭蕉 → 真田信繁(幸村) → 川崎孫四郎 → 細川ガラシャ → 大久保利通 → 楠木正成 昨日、大阪で夕方に予定があり、 今朝は両国で野暮用がありますもので、 珍しく早朝の上りの、 東海道新幹線で東京に戻りました。 いつもの朝の東京駅同様に、 なんの予約もしなかったんですが、 始発を狙っていたもの、 なんと一時間先の、 のぞみ号の指定席も取れず、 止むを得ずひかり号の、 自由席に乗り込みました。 しかしこれがまた大混雑で、 通路に人が…

湊川神社 〜楠木正成公墓所・徳川光圀像〜

…新たな項目が加わりました。 【終焉の地】のブログ記事 → 浅野内匠頭 → 大石内蔵助 → 山縣豊太郎 → 吉田松陰 → 三遊亭圓生 → 団琢磨 → 大村益次郎・司馬遼太郎 → 松尾芭蕉 → 真田幸村 → 川崎孫四郎 → 細川ガラシャ → 大久保利通 → 楠木正成 大楠公の遺品を多く収蔵するという宝物殿ですが、 残念ながら毎週水曜日は休館日とか。。。 とてもとても残念ですが、 そもそも時間がなかったので、 正直ホッと致しました。 時間に余裕がある時に、 近くに来たら再訪します。

福澤諭吉誕生地 〜豊前国中津藩蔵屋舗之跡〜

…磨 → 大村益次郎・司馬遼太郎 → 松尾芭蕉 → 真田幸村 → 川崎孫四郎 → 細川ガラシャ → 大久保利通 幕末明治の大教育家福澤諭吉先生こゝ に生る。時に天保五年十二月十二日(西暦一 八三五年一月十日)。こゝは舊豊前中津藩 倉屋敷の長屋跡である。先生の父百助は 一面に於いて、経學者、詩文家であった が、然も、理財の道に精通した循吏であ って、金穀會計の俗役に奔命して其生涯 を終った人である。彼は妻お順が、大き な瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時 「これはよい子だ、大きくな…

高野山 金剛峯寺

…てられたばかりの、 司馬遼太郎の文学碑。 高野山は、いうまでもなく平安初期に空海 がひらいた。 山上は、ふしぎなほどに平坦である。 そこに一個の都市でも展開しているかのよ うに、堂塔、伽藍、子院などが棟をそびえさ せ、ひさしを深くし、練塀をつらねている。 枝道に入ると、中世、別所とよばれて、非僧 非俗のひとたちが集団で住んでいた幽邃な場 所があり、寺よりもはるかに俗臭がすくない。 さらには林間に苔むした中世以来の墓地があ り、もっとも奥まった場所である奥の院に、 僧空海がいま…

贈右大臣大久保公哀悼碑

…磨 → 大村益次郎・司馬遼太郎 → 松尾芭蕉 → 真田幸村 → 川崎孫四郎 → 細川ガラシャ ワタシの通勤途中、 紀尾井町の清水谷公園の中央にある、 「贈右大臣大久保公哀悼碑」。 この地で暗殺された維新三傑の一人、 大久保利通の死を哀れみ悼む記念碑です。 「紀尾井坂の変」と呼ばれる、 不平士族による大久保利通暗殺事件。 その名称のせいか、 一部の歴史小説やドラマでは、 紀尾井坂の途中で、 馬車が襲われる場面がよくありますが、 実際は紀尾井坂ではなく、 この碑がある清水谷公園よ…

兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑 ~大村益次郎・司馬遼太郎終焉の地〜

…医療センター南東角 司馬遼太郎の終焉の地でもある、 国立病院大阪医療センター。 ここは彼が「花神」で描いた村田蔵六こと、 大村益次郎が、京都三条で刺客に襲われて、 一命をとりとめてここに転院したものの、 二ヶ月後に敗血症で亡くなった場所でもあります。 そんな訳で、この病院の南東の角に、 昭和十五年(1940)に建てられた、 「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」があります。 「火吹き達磨」とあだ名された大村益次郎。 適塾に学び、彰義隊を瞬間で壊滅させて、 靖国神社内に日本初の西…

司馬遼太郎記念館

…ポットは、 東大阪の司馬遼太郎記念館と淀屋橋の適塾。 昨夜友人から半分無理矢理に東大阪の企業を紹介してもらい、 近鉄電車に乗って、河内小阪で途中下車して、 あくまでついでにこちらに立ち寄ってみました。 河内小阪駅で地図をもらいました。 南口、商店街のアーケード・スカイドーム小阪に、 この「司馬遼太郎記念館」の大きな表示があります。 ところどころに案内表示があるので、 地図がなくても迷うことはありません。 途中の中小阪公園には、 あの「二十一世紀を生きる君たちへ」の碑があります…

「落日燃ゆ」(新潮文庫)

…しては当然のこと。 司馬遼太郎もしかりです。 彼が描きたかった男達。 男たるもの、人間たるもの。と、 活きる勇気のようなものが湧いてまいります。 そして彼は、日本で一番かっこうのいい愛妻家でした。 → 城山三郎 - Wikipedia 落日燃ゆ (新潮文庫)作者: 城山三郎出版社/メーカー: 新潮社発売日: 1986/11/27メディア: 文庫購入: 7人 クリック: 94回この商品を含むブログ (61件) を見る この小説を読んだのは初めてではありません。 ただ、吉村昭さん…

秋山好古顕彰碑 除幕式

…するにNHKドラマで司馬遼太郎の、 「坂の上の雲」が初映像化されるもんですから、 この主人公の一人である、 たまたまここ習志野で、 日本の騎兵を育成し強化し、 世界最強だったロシアのコサック騎兵と対等に戦った、 秋山好古大将にあやかって、 「町おこし」をしようというものなんです。 → スペシャルドラマ坂の上の雲/NHK 松山放送局|坂の上の雲 さすがに青いシートではなく、 純白の幕が張られています。 強風の為、取れかかる幕を、 必死に押さえている係員さんが大変そうでした。 こ…

長男の体育祭 2009

…(シート?)に覆われたこれがありました。 今年からNHKで三年に渡り、 あの司馬遼太郎の「坂の上の雲」が 初映像化、初ドラマ化されるとはいえ、 秋山好古が顕彰されるべき功績は、 「日本騎兵」の育成であって、 「習志野」そのものではないはずですが・・・。 だったらよほど、 「篠原に習え」が「習志野」となった 明治天皇か篠原国幹を顕彰したほうが・・・。 まぁとにかくまた明日観に来よう。 ← 二つのブログランキングに参加しております。 ← よろしかったら応援クリックをお願いします。

廃止される日比谷公園のとある公共施設について

…↓↓↓ さて、かつて司馬遼太郎は、 その著書の中でこう言いました。 「かつて存在せしものは 時代の価値観をこえて保存し、 記念すべきものである。 それが 文明というものである」 司馬遼太郎 まったく私も同感であり、 史跡は出来る限り保存することが、 これ人類の文明の証そのものであると思います。 さて、しかし、今、 ここ日比谷に大正時代から存在し、 かの三島由紀夫が呼称を命名したという、 長い歴史のある風俗・民俗に関わった施設が廃止されました。 しかしこれは絶対に報道されること…

「天平の甍」

…です。 なんと熱心な司馬遼太郎ファンでありながら、 「空海の風景」だけは敬遠していたほどだったんです。 その頃の私にはまったく聞きなれない、 仏教的な専門用語が多すぎて、 巻末の注釈とニラメッコしながら読んだものの、 なんだか良く解らぬままに読み終えたといったところ・・・。 ・・・だったのでした。 今読んでみると、これ凄い面白いです。 名著は何年も前からそこに変わらずに存在していたのに、 愚かな私は、つまらないだの、面白いだの・・・。 ・・・反省です。 ← うげぇっ50位・・…

騎兵第十三連隊跡 〜東邦大学習志野キャンパス その二〜

…本の夜明けを描いた、司馬遼太郎。 彼が亡くなった平成八年(1996)に、 騎兵第十三連隊会有志一同により建てられた文学碑です。 司馬自筆の文字で、こう刻まれています。 「かつて存在せしものは 時代の価値観をこえて保存し、 記念すべきものである。 それが 文明というものである」 司馬遼太郎 まったくだよねぇ。司馬先生。 おっしゃる通り。 それが例え「負の遺産」でも、 保存出来るものは、保存するべきだねぇ。うん。 隣にもありましたが、 こちらの五面形の塔も、 「勅諭拝受五十周年」…