千松山 本性寺 〜秋山自雲墓〜

本性寺

宗派 法華宗
本尊 ?
111-0022 台東区清川1-1-2




「あきやまじうん」ではなく「しゅうざんじうん」と読むそうです。
よほどの歴史好きでもほとんど知らない名前だと思います。
この人、実は「功雄霊神」という神様になったんですけど、
どんな神様なのかは後ほど説明します。




さて、幸いなことに「恥ずかしい病気・最終回」から今日まで、
まったく再発の兆しはありませんが、
特に周囲に隠したり、否定している訳でもないので、
実際には痔瘻予備軍の「肛門周囲膿瘍」が治った状態なんですけど
私が痔瘻であるという噂が事業所内で有名になってしまいました。




このブログではふざけて自ら「痔腸」なんて、
何度か書いたこともありましたけど、
最近では本当に一部の社員から、
「お尻の病気のことなら、あの痔の次長に聞いてごらん。」
なんて声がチラホラ。
なんと本当に相談にくる者まで現れる始末・・・(苦笑)。




痔瘻も痔疾の一種には違いありませんが、
痔瘻とその他の痔というのは、
実はまったくそのメカニズムが違います。
痔瘻予備軍なだけでまったく他の痔ではない私ですから、
他の痔に関する知識はほとんどないんですが、
あくまで労働者の労働衛生の向上を計る、
衛生管理者として、他の痔を調べて答えましたがね・・・。




他の痔についていろいろ調べている中で、
偶然知ったのがこの秋山自雲さん。
実は彼は「痔の神様」なんです。




江戸中期のこと。
厳島の酒問屋の岡田孫左衛門に、
奉公していた摂津国出身の狭間善兵衛さん。
とっても働き者だったことを見込まれて、
岡田家を継ぎ、岡田孫右衛門と名を改めました。
しかし38歳の時、悪質な痔疾に罹ってしまい、
大変苦しみ、様々な治療を試みても効果がなく、
ついには出家して今日のこのお寺に入りました。
ここで法名の秋山自雲となります。
秋山自雲さん、このお寺の題目堂に篭り、
法華経を唱え、病気平癒を祈願したもののついに叶わず、
7年間という長き年数を苦しみ抜き、
ついに延享元年(1744)、
「後の世に痔疾に痛苦する者が来れば私が救護してあげよう」
という誓願したのち、亡くなったそうです。享年45歳でした。
さてその後、痔を患う自雲の友人が完治したことから
たちまち痔疾平癒の噂が大きくなり、
なぜか関西を中心に全国にその信仰が広まりました。
痔主達による第一次秋山自雲信仰ブームです。
やはり法華宗の寺院で多く祀られたようです。
さて時は過ぎ自雲の死後、九十年近く経った天保二年(1831)。
時の尾張公が痔疾だったようなんですけど、
どちらかの秋山自雲に祈願したところ平癒したそうで、
またまた痔主達のの秋山自雲ブームが再来します。
なんせ、御三家の痔を治したとあっては、
VIP痔主たちも黙ってはいられません。
なんと代々世襲神祇伯をつとめる、
かの白川家から「功雄霊神」の諡(おくりな)を賜わります。
ここで彼はついに痔の神となり、
当然第二次秋山自雲信仰ブームを迎えることとなります。





こんな話を知ってしまった、
この私がこのお寺をお参りしない訳がありません。
存在を知ってからの「事後感謝」(?)ですが、
私が痔瘻にならなかった感謝をしに、
ともかくお参りしてきました。

お寺の門前にはこの石碑。
「秋山自雲墓在當寺」とあります。
左側面には、「寶暦壬申之冬」と刻まれていますから、
その死後八年後の宝暦三年(1752)に建立されたもののようです。




池波正太郎さんはこの碑をみたのか、
秋山自雲の存在を知らなかったのか、
この寺を「剣客商売」の主人公の、
「秋山(あきやま)家」の菩提寺としたようです。
いや、ひょっとするとこの碑をみてから、
主人公を秋山姓にしたのかもしれません。

さてその墓石です。
上部の自然石には勿論縦書きですが、こう刻まれています。
諡号を賜ってから作られたもののようです。
新墓石?   

賜 諡
秋 山 自 雲 位
  功 雄 霊 神

写真左下の小さな自然石には、
「秋山自雲」とありますから、
元々はこちらがオリジナルの墓石だったと思われます
旧墓石?  


おそらく彼の患った「たちの悪い痔疾」というのは、
まず間違いなく痔瘻だと思います。
私の勝手な想像では、痔瘻の悪化で、
敗血症で亡くなったのではないかと思います。
私自身ももし西洋医学がなかったら、
同じようになっていたことでしょう。
どんなことにでも先人達の尊い犠牲があります。




秋山自雲さん、
ありがとうございました。



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