兜神社

祭神 倉稲魂命大国主命事代主命
103-0026 中央区日本橋兜町1-8




車の争奪戦に破れ、
地下鉄で茅場町の会社に商談で出掛けました。




すぐ近くにある同じ事業部の他の事業所に、
ちょっくら立ち寄ってみようと、
中央区日本橋地区をぷらぷらお散歩です。




兜神社




その事業所のすぐ近くにある兜神社。
兜町といえば、アメリカのウォール街と同じく、
証券市場を表す代名詞になっていますが、
その「兜」という地名はもちろんこの神社に由来します。




主祭神にお稲荷さま、
右に大黒さまと、
左に恵比寿さまを祀るこちらですが、
その成り立ちには諸説あり、
はっきりとした通説はありません。




そもそもは、このすぐ近くに、
平将門を祀ったのであろう鎧稲荷と、
源義家を祀ったを兜塚というものがあって、
地元の漁民に信仰されていましたが、
明治四年(1871)に三井物産の前身である、
京商社の移転に伴って合祀し、
この兜神社は誕生し、兜町の鎮守として定められました。
明治七年(1874)になると三井家の圧力で、
源義家の祭祀を廃し、
三井家の信仰する三囲稲荷神社の摂社である、
福神社より大国主命事代主命を分霊勧請して合祀します。
三井家と三囲神社については過去に一度ここで触れています。





→ 銀座出世地蔵尊





明治十一年(1878)、東京株式取引所がここに設立され、
その取引所が兜神社の氏子総代となったことで、
証券業界からの信仰を集めるようになっていきます。





昭和二年(1927)、現在のこの地に遷地され、
鉄筋コンクリート造りの社殿を造営しますが、
昭和四十六年(1971)に首都高建設に伴ってその社殿を解体し、
現在の一間社流造・向拝付きの社殿が造営されました。




兜石




このおそらく大きな火山弾と想像される兜岩の由来ですが、
諸説があってどれもその裏付がありません。
多くの他のサイトでは、岩の手前の石標である石が、
そのものであるように紹介されています。




諸説のうち、主流は大きく分類して三つ。





源義家が奥州征伐凱旋の際に兜をここに埋めて感謝し塚を作った。
・同じく源義家が奥州征伐の前にこの岩に兜を縣けて戦勝を祈願した。
藤原秀郷平将門の首をもって兜に添へてここまで来れるが、
 その兜のみをここに埋めて塚とした。





私はどうも、それらの説とはちょっと違って、
ただの三井家の気まぐれではないかと想像しております。





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一石橋迷子しらせ石標

東京都指定有形文化財(歴史資料)
103-0028 中央区八重洲1-11地先




一石橋の袂




ぷらぷらとお散歩は続きます。
どうせなら東京駅まで歩いてちゃえぃ。
日本橋川にかかる一石橋の袂には、
この様にフェンスに囲まれ石標があるんです。




一石橋迷子しらせ石標(正面)




安政四年(1857)に建立された、
東京都指定有形文化財に指定されている、
「一石橋迷子しらせ石標」です。
正面には「満よひ子の志るべ」(まよいごのしるべ)と彫られています。




安政の当時、日本橋界隈は江戸を代表する繁華街。
実際、迷い子が多く出たそうです。
携帯はおろか、連絡する手段の少ない時代です。
迷い子は地元の自治体住人が責任を持って保護せよという掟があって、
ここ西河岸町の人々は、かなり苦労していたようです。
そこでこの橋の袂にこれが建てられました。




一石橋迷子しらせ石標(正面・右側)
一石橋迷子しらせ石標(裏側・左側)




石標右側には「志らする方」(知らす方)、
左側には「たづぬる方」(尋ねる方)と彫られ、
その上部には四角い窪みが彫られています。
この窪みに、知らす方も、尋ねる方も、
その特徴を書いた紙を貼って情報を集めました。





裏側には、

安政四丁巳年三月
            西河岸町
御願済建之

と、あります。




「御願済」の「御」は「ご公儀」に対するものでしょう。
当時の幕府は町人にまでかなり細かい指導をしていたのでしょね。





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