陸軍習志野学校跡地 その二

動物慰霊之塔

習志野の森
275-0006 習志野市泉町3-10
公式サイト http://www.geocities.jp/narashinonomori/




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→ 過去の「習志野騎兵」関連の記事




昨日の「習志野の森」の開放日。
皇紀二千六百年一月建立の
「動物慰霊之塔」の揮毫の名が、
グリグリに潰されて、
いったい誰のものなのか、
読めなくなっていることには触れました。




うちに帰ってPCで調べれば、
すぐに分かるだろうと思っていたのですが、
いくら検索してもみつかりません。




こういう課題が発生しちゃうと、
どうしても調べたくなってしまうのが、
私の「バカ」たる由縁です。
この部分   
改めて潰されている部分、
8文字を並べてみます。
(1)
文字1
(2)
文字2
(3)
文字3
(4)
文字4
(5)
文字5
(6)
文字6
(7)
文字7
(8)
文字8
軍人の揮毫であれば、
まず階級を記すでしょう。
(1)「薩」みたいですが「陸」でしょう。
(2)「陸」なら「軍」と推定できます。
(3)この「少」はよく読めます。
(4)はよく読めませんが、
揮毫を頼まれるほどの人であれば、
まず「将」と思われます。
(1)〜(4)は「陸軍少将」でいいでしょう。
(5)はどうやら「西」と読めますが、
(6)〜(8)はまったく読めません。


ここまでのヒント。
皇紀二千六百年、
つまり昭和15年(1940)1月の時点で、
陸軍少(将?)で習志野に関わった、
最初に「西」のつく名前の人を探せばいいのです。




真っ先に思い浮かぶ名前は、
栗林忠道さんと同じく硫黄島で戦死した、
映画「硫黄島からの手紙」にも登場する、
バロン西こと、西竹一さん。
昭和7年(1932)のロサンゼルスオリンピック
馬術で金メダルを獲った有名人です。
元々この地にあった騎兵第16連隊に属したこともあり、
直前には陸軍騎兵学校の教官を務めていましたから、
確かに習志野にご縁がありますが、
あくまで騎兵ですし、この当時の階級は「少佐」です。
それに「西竹一」では(7)の一文字が余ってしまい、
どう見ても「西竹一書」の「書」には見えません。
習志野学校が実験動物の慰霊の為に建てた碑に、
いくら国民的英雄であっても、
騎兵の少佐に揮毫を頼む訳はありません。
・・・却下です。




当時の将官で「西」のつく人を、
虱潰しに調べてみました。
えーと、・・・西原貫治・・・、
経歴を見れば一目瞭然。
当時の習志野学校の校長ですから、
まず間違いありません。




私が調べて分かった経歴は、
下記の通りです。

西原貫治

明治44年(1911)5月 陸軍士官学校 二十三期卒業
大正07年(1918)11月 陸軍大学校  三十期卒業
昭和13年(1938)12月 陸軍習志野学校校長(少将)
昭和16年(1941)03月 第23師団長(中将)
昭和17年(1942)11月 教育総監部化兵監
昭和18年(1943)05月 教育総監部本部長事務扱
昭和19年(1944)02月 第4軍司令官
昭和20年(1945)04月 第57軍司令官

名前が分かってしまえば、
潰されて読めなかった文字も、
きちんと確認できるものです。




西




で、確定です。




さてこの西原さん。
あまり有名な人ではありませんが、
陸軍大学第30期卒業といえば、
終戦時の陸軍大臣で、
終戦の日に自決した、
阿南惟幾大将や、
マンガ「ジパング」にも、
このブログにも何度か登場している、
石原莞爾中将と、
同期の卒業じゃないですか。



西原さん、
本土決戦に臨む九州防衛隊の一軍の司令官として、
終戦を迎え、戦死を免れています。



しかし私が調べて分かった彼の経歴はここまで。
その後は杳として分かりませんでした・・・。


この碑の西原さんの名を潰した方は、
いったいどんな人なんでしょうか。
かなり固い黒御影石ですから、
子供の悪戯ではないでしょう。
青春を奪われた習志野学校の元生徒でしょうか。
彼に個人的な恨みのある元同僚・部下でしょうか。
戦争は人間の心身を奪ったり傷つけるばかりではなく、
怒りや恨みをいつまでも残します。




いったいどんな気持ちで、
この碑の文字を潰したのか・・・。
・・・それだけは調べようもありません。




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「陸軍習志野学校」
印刷・発行
昭和六十二年一月
編輯兼発行者
陸軍習志野学校史編纂委員会
会長 衣笠 駿雄
発行所
陸軍習志野学校史編纂委員会

  



上の陸軍習志野学校跡地その二を書いたのは午前中でした。
午後は、習志野市内の図書館を四件ハシゴして、
いろいろ調べて、
この本を借りて来ました。
西原貫治中将   
西原貫治さんについて分かったこと。
西原さんは、習志野学校の第四代校長です。
(昭和12年12月10日〜昭和16年03月01日)
弟さんの西原一策さんも陸大・優等卒の、
恩賜の軍刀組の人でした。
(お兄さんは恩賜組ではなかったようですが。)

西原一策

大正02年(1913)5月 陸軍士官学校 二十五期卒業
大正11年(1918)11月 陸軍大学校  三十四期(優等)卒業
昭和15年(1940)12月 陸軍騎兵学校校長(少将)
昭和17年(1942)12月 戦車第3師団長(中将)
昭和19年(1944)01月 機甲本部長
昭和20年(1945)01月 病死

お兄さんの貫治さんの戦後については、
結局分かりませんでした。




しかし、この本を借りて読み、
あの慰霊塔の名が、
なぜ削り取られたのか、
ちょっと違う推理が出来るようになりました。




陸軍の各学校は本来、
「陸軍騎兵学校」のように、
地名ではなく、その教授内容が名付けられます。
地名なのはここと陸軍中野学校のみ。
習志野学校が「毒ガス学校」であるのに対し、
中野学校は諜報謀略の「スパイ学校」と呼ばれています。
つまり両校ともその教授内容を、
極秘に隠蔽したかったということです。



ましてや毒ガスは第一次大戦の頃から、
非人道的であると世界から非難されていた兵器です。
この習志野学校も、あくまで、
「軍事ニ関スル化学ノ教育並調査研究等ヲ行フ所」
であって、毒ガス防護方法の教育がその目的であるとしました。
しかし、実際にはその使用法も訓練していましたから、
戦後にその責任を問われることは確実です。



終戦直後、進駐軍の上陸の前にと、
数日間で多くの書類を焼却しました。
膨大な資料を焼却する煙と炎は、
かなり高く大きなものであったそうです。



あの動物慰霊之塔も、
その責任を問われる証拠となるかも知れません。
おそらくそれに気付いた人が、
西原さんに責が及ばぬように、
「陸軍少将西原貫治」の8文字を、
進駐軍に読まれぬように、
削り取ったのかもしれません。




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