陸軍習志野学校跡地 その三


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「陸軍習志野学校」
印刷・発行
昭和六十二年一月
編輯兼発行者
陸軍習志野学校史編纂委員会
会長 衣笠 駿雄
発行所
陸軍習志野学校史編纂委員会

  



上の陸軍習志野学校跡地その二を書いたのは午前中でした。
午後は、習志野市内の図書館を四件ハシゴして、
いろいろ調べて、
この本を借りて来ました。
西原貫治中将   
西原貫治さんについて分かったこと。
西原さんは、習志野学校の第四代校長です。
(昭和12年12月10日〜昭和16年03月01日)
弟さんの西原一策さんも陸大・優等卒の、
恩賜の軍刀組の人でした。
(お兄さんは恩賜組ではなかったようですが。)

西原一策

大正02年(1913)5月 陸軍士官学校 二十五期卒業
大正11年(1918)11月 陸軍大学校  三十四期(優等)卒業
昭和15年(1940)12月 陸軍騎兵学校校長(少将)
昭和17年(1942)12月 戦車第3師団長(中将)
昭和19年(1944)01月 機甲本部長
昭和20年(1945)01月 病死

お兄さんの貫治さんの戦後については、
結局分かりませんでした。




しかし、この本を借りて読み、
あの慰霊塔の名が、
なぜ削り取られたのか、
ちょっと違う推理が出来るようになりました。




陸軍の各学校は本来、
「陸軍騎兵学校」のように、
地名ではなく、その教授内容が名付けられます。
地名なのはここと陸軍中野学校のみ。
習志野学校が「毒ガス学校」であるのに対し、
中野学校は諜報謀略の「スパイ学校」と呼ばれています。
つまり両校ともその教授内容を、
極秘に隠蔽したかったということです。



ましてや毒ガスは第一次大戦の頃から、
非人道的であると世界から非難されていた兵器です。
この習志野学校も、あくまで、
「軍事ニ関スル化学ノ教育並調査研究等ヲ行フ所」
であって、毒ガス防護方法の教育がその目的であるとしました。
しかし、実際にはその使用法も訓練していましたから、
戦後にその責任を問われることは確実です。



終戦直後、進駐軍の上陸の前にと、
数日間で多くの書類を焼却しました。
膨大な資料を焼却する煙と炎は、
かなり高く大きなものであったそうです。



あの動物慰霊之塔も、
その責任を問われる証拠となるかも知れません。
おそらくそれに気付いた人が、
西原さんに責が及ばぬように、
「陸軍少将西原貫治」の8文字を、
進駐軍に読まれぬように、
削り取ったのかもしれません。




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