元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

習志野在住東京勤務の千葉都民。神社仏閣・歴史散歩、カメラ、ロードバイクが趣味。ラーメン二郎(京成大久保店がホーム)・蕎麦が大好物。

陸軍習志野学校跡地 その四

動物慰霊塔

習志野の森
275-0006 習志野市泉町3-10
公式サイト http://www.geocities.jp/narashinonomori/




陸軍習志野学校跡地 → その一 その二 その三
→ 過去の「習志野騎兵」関連の記事




えっ!?。
まだそれやるのかって??。
しつこい?、ダメ?、嫌い?。
すみません。
あともう一回だけお願いします。




さて、陸軍習志野学校跡地に残る、
「動物慰霊塔」の揮毫者の名が、
潰されて読めなくなっていたものの、
調べてみれば「陸軍少将西原貫治」の書であったのだと、
勝手に断定したことは、
その一 その二に書きました。
その三で、これは、
西原さんへの恨みや憎しみによるものではなく、
反人道的な毒ガスの使用研究という、
戦後に責の及ぶ危険性を絶つために、
誰かが、善意で消したものでないか。と、
勝手に推理したものの、
西原貫治さんの戦後がまったく分からないままでは、
あくまで想像の域を脱し得ません。




いろいろ調べていると、
陸大・優秀卒、
恩賜の軍刀組の弟さん、
西原一策さんは、
実はとっても有名な人でした。
いろんな検索にひっかかります。
日米開戦までに至る交渉の中で、
仏領インドシナに置かれた、
「西原機関」の機関長こそが彼でした。
一策さんとは知りませんでしたけれど、
「西原機関」の名は聞いたことがあります。




しかし、一方、
お兄さんの西原貫治さん。
どれだけネットで検索しても、
習志野市の図書館で調べても、
その戦後は杳として分かりません・・・。
う〜ん。
これ以上ネットや、
習志野市立の図書館に頼っても、
この先の進展はありません。




昼休みに、職場近くの、
日比谷図書館のデータベースを利用してみました。



まずは「現代人名録・物故者編(1901-2000)」で検索してみると、
なんとも簡単な一行のみがヒットしました。

西原貫治
にしはらかんじ(元陸軍中将)1975(昭和50年)9.11没・84歳

おおっ!!、内容不足は不満ですが、
ともかく西原貫治は84歳まで長生きしたのですね。
終戦時は54歳だったという計算になります。




続いて検索したのは、
朝日新聞全データベース」。
朝日新聞全データに「西原貫治」という、
文字列が掲載されたのは、
戦前、戦後から現在まで、
たった二回のみでした。




一度目は、終戦から二月半後の、
昭和二十年(1945)10月30日、
本土決戦の配置表が発表された時でした。
九州の水際を守る、
第五十七軍の司令官として、
ただ名前が載っているだけです。




そして二度目は訃報でした。
朝日新聞縮小版、
昭和五十年(1975)9月13日夕刊です。
その全文を引用します。
(個人情報保護の為自宅住所の番地等は伏せます。)

西原貫治氏(元陸軍中将)
十一日午前六時二十五分、脳軟化症の為、
神奈川県藤沢市羽島○ノ○ノ○○の自宅で死去。
八十四歳。告別式は十七日午後一時から
東京都新宿区新宿二ノ九、太宗寺で。
喪主は長男、○氏。

私が六歳の頃に、
藤沢のご自宅で脳梗塞で亡くなったようですね。
長く患ったようにも思えませし、
この頃の軍人さんとしては、
長寿を全うしたといっていいでしょう。
喪主の息子さんと、私、同じ名前で、
江戸六地蔵のある太宗寺で、
告別式を行ったと聞けば、
多少なりとも仏縁を感じます。




ともかく西原貫治さん、
長生き出来てよかったなぁ〜、
なんて、
ずっと先の後の世の習志野で、
勝手に安心している、
息子さんと同じ名の者が、
ここに一名おります。




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