稲毛浅間神社

浅間神社の鳥居

祭神 木花咲耶姫命
263-0034 千葉市稲毛区稲毛1-15-10
公式サイト http://www.inage-sengenjinja.or.jp/



今日は楽しい平日の代休です。
子供達も夏休み。
さぁて、どこに出掛けようか。




昨日の後半の子供たちへのサービスも効いていますが、
最近息子達は「鉱石集め」にハマっているようで、
(昨日もミュージアムショップでお小遣いで「蛍石」を買っていました。)
近頃、多くの神社仏閣にある、
「幸運の天然石入りおみくじ」(300円)がお目当てで、
神社であろうが、お寺だろうが、
喜んでホイホイ着いて来ます。




さて神社仏閣を調べると、
どんどん新たな疑問が湧き出てきますが、
昨日お参りした千葉神社が、
実は明治以前はお寺だったと知り、
ならば千葉氏が信仰した神社はどこだったのか・・・。




ググってみました。




こちらは大同三年(808)に、
富士山本宮浅間大社の御分霊を、
勧請したことから始まったとされています。
富士山信仰のご祭神は、
天孫降臨の主役、瓊々杵命の妻となる、
大変美しい、木花咲耶姫(コノハナサクヤ)命。
美と短命を表しているそうですが、
実は富士山のように強い強いお母さんになります。
またそのお姉さんは石長比売(イハナガヒメ)は、
醜く永遠を象徴しているのですが、
姉妹揃って瓊々杵の元に嫁がれたのに、
石長比売を親元に帰してしまったことで、
この後の御子(天皇家)の命は、
人間並みに短くなってしまったとか。




「あまり美しい奥さんをもらうと早く死んでしまいますよ。」




と、いう格言か・・・(汗)。
まんざら嘘ではないかもしれません(笑)。





治承四年(1180)、源頼朝が使者を送り武運長久を祈願したともいわれ、
その後は千葉常胤以来、代々の千葉氏の信仰を篤く受けたとされています。
稲毛浅間神社の社殿
現在この神社は小高い丘のような上に建っているのですが、
これは文治三年(1187)の社殿再建の時に、
富士山の形のように盛土して、
参道も富士山の登山道のように三方向に設け、
社殿は東京湾を隔てて、
本当の富士山と向かい合うように造られました。
賽銭箱の神紋   
やはり神紋は、
桓武天皇の子孫に多く、
千葉氏の一部が多用した、
千葉寺にもあった、
「九曜」です。




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検見川神社

下総之国 神祇三社
祭神 検見川大明神(三柱の神を総称) 
[東神殿]宇迦之御魂神
[中神殿]素盞嗚尊
[西神殿]伊弉冉尊
262-0023 千葉市花見川区検見川町1-1
公式サイト http://www.kemigawa-jinja.com/
検見川神社の鳥居 
稲毛に向かう途中、
道路のあちらこちらに、
「検見川神社」を案内する標識があったので、
その案内に逆らわずにやって来ました。
住宅地にぽっこりとした小山があり、
これがこちらの神社です。
検見川神社の石段   
この地は二千年前の蓮が発芽した、
大賀蓮発掘」で有名な、
落合遺跡があったように、
古代から集落があり栄えていた場所です。
この神社のある小山は元々そんな古代人の、
八百万の神や、先祖を祀る、
神聖な場所だったのではないでしょうか。
検見川神社の社殿   
様々な歴史の流れの中で、様々な権力者が、
様々な神々を祀ったことでしょう。




そんな訳で、
現在では、
お稲荷さんと、スサノオと、イザナミの、
三柱の神が主祭神となっています。
賽銭箱の三つの神紋   
賽銭箱にも神紋がちゃんと三つあります。




おーっと、ここにも左、「九曜」の紋です。




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山縣飛行士殉空之地碑

275-0014 習志野市鷺沼5-4




二社にお参りして昼になりました。
幸楽苑幕張インター店で、ラーメンをすすって駐車場に出ると、
店と駐車場の間の小道の入り口に、
習志野市が設置したと思われる、
「←山縣飛行士殉空之地碑」という標識があります。




なんだかよく分かりませんが、
とにかく行って見ましょうか。
飛行機が落ちた場所なんでしょうね。
幕張新都心を望む  鷺沼の畑の真ん中   
幕張新都心を望む、
台地の上の畑の真ん中です。
山縣飛行士殉空之地碑  山縣飛行士殉空之地碑の裏     
碑がありました。
碑の表には「山縣飛行士殉空之地碑」、
書は、
「男爵 奈良原三次」
と、あります。
碑の裏には、
「紀元二千六百年八月二十九日 伊藤音次郎建立」
と記されていました。
「紀元二千六百年」昭和十五年(1940)には、
日本中にいったい幾つもの碑や銅像が建てられたのだろう。
山縣飛行士殉空之地碑の碑文   
表の碑の台座には、
こう記されていました。


山縣豊太郎君は明治三十二年九月百太郎氏の三男として広島に生まれ資性温健謙譲然も豪毅果断十六歳志を立てて東京に出叔父鳥飼繁三郎氏に寄り身を航空界に投ず大正四年二月伊藤飛行機研究所創設されるや所長伊藤音次郎氏に師事して飛行機の操縦及び製作を習得し大正六年第一回卒業生首席として飛行士免状を授与せらる爾来技愈々熟し出藍の誉高く東京大阪間最初の郵便飛行同区間周航の六百三十哩飛行等の競技に優勝し又民間最初の曲技飛行家として其天才的技量を発揮し後輩を指導して多数の優秀な飛行士を養成す大正九年八月二十九日の曲技飛行中空中分解の為愛機恵美号と共に此の地に玉砕す我が航空界の第一人者として称賛を受けたる君は航空界に幾多の大功績を残して遂に逝けり享年僅二十三官民間人今猶ほ惜しまざるはなし建碑に当って其昔を偲ぶ 嗚呼
昭和十五年八月二十九日 男爵 奈良原三次 


ふーん・・・。




家に帰って調べました。
まずはこの揮毫者、
奈良原三次氏。




元は海軍の中技師だった、
奈良原さん。
軍籍を離れた、
明治四十四年(1911)、
自ら設計製作した飛行機、
「奈良原式2号」で、
国産機による飛行を、
所沢飛行場*1で行って成功し、
国産航空機の生みの親となった人。
まだまだ高度は4m、
飛行距離はたった60mでした。
その後、奈良原さんは、
飛行場を稲毛に開設。
なんと場所は今日お参りした、
浅間神社の大鳥居の西側でした。
この頃ここに弟子入りした、
パイロットの練習生が、
この碑の建立者、
伊藤音次郎氏。




伊藤さんは大正四年(1915)に独立し、
同じ稲毛に伊藤飛行機研究所を創立し
大正五年(1916)に自ら製作した飛行機で、
初の民間機東京上空訪問飛行を行います。




大正六年(1917)東京湾を高潮が襲い、
稲毛の施設が壊滅してしまった伊藤は、
翌年、大正七年(1918)に、
ここからすぐ近くの現在の習志野市袖ヶ浦5丁目に、
伊藤飛行機研究所を再建します。
ここに所属した優秀なパイロット、
山縣豊太郎さんが、
師匠の伊藤が初の民間機東京上空飛行を成功した飛行機の二号機で、
大正九年(1920)に曲技飛行の宙返り中に、
翼が一枚ちぎれ落ち、きりもみ、
ここに墜落し、
山縣さんは帰らぬ人となりました。




その死の二十年後・・・、
師匠・伊藤によって、
山縣さんの追悼の為、
建立された碑がこちらです。
揮毫、碑文は、
そのまた師匠の奈良原にお願いしたという訳です。




なんだか縁もゆかりもありませんが、
ちょっと感動しちゃって、
山縣さんの死の87年後に、
彼の冥福を祈る習志野在住のおっさんが一人・・・。
科学技術の小さな進歩の一歩一歩は、
こんな犠牲の上に成り立っているのです。




私、若き日に大好きだったブルハ、
THE BLUE HEARTS
その代表曲「TRAIN−TRAIN」に、
こんな詞があります。




世界中に定められたどんな記念日なんかより、
あなたが生きている今日はどんなに素晴らしいだろう




世界中に建てられてるどんな記念碑なんかより
あなたが生きている今日はどんなに意味があるだろう



大好きな歌詞です。
まったくおっしゃる通りですけど、




でも、記念日や記念碑も
これ、捨てたもんではありませんぜ。
マーシー




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*1:現在の航空公園