西國三十三所順打ち巡礼記

旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

山縣飛行士殉空之地碑

275-0014 習志野市鷺沼5-4




二社にお参りして昼になりました。
幸楽苑幕張インター店で、ラーメンをすすって駐車場に出ると、
店と駐車場の間の小道の入り口に、
習志野市が設置したと思われる、
「←山縣飛行士殉空之地碑」という標識があります。




なんだかよく分かりませんが、
とにかく行って見ましょうか。
飛行機が落ちた場所なんでしょうね。
幕張新都心を望む  鷺沼の畑の真ん中   
幕張新都心を望む、
台地の上の畑の真ん中です。
山縣飛行士殉空之地碑  山縣飛行士殉空之地碑の裏     
碑がありました。
碑の表には「山縣飛行士殉空之地碑」、
書は、
「男爵 奈良原三次」
と、あります。
碑の裏には、
「紀元二千六百年八月二十九日 伊藤音次郎建立」
と記されていました。
「紀元二千六百年」昭和十五年(1940)には、
日本中にいったい幾つもの碑や銅像が建てられたのだろう。
山縣飛行士殉空之地碑の碑文   
表の碑の台座には、
こう記されていました。


山縣豊太郎君は明治三十二年九月百太郎氏の三男として広島に生まれ資性温健謙譲然も豪毅果断十六歳志を立てて東京に出叔父鳥飼繁三郎氏に寄り身を航空界に投ず大正四年二月伊藤飛行機研究所創設されるや所長伊藤音次郎氏に師事して飛行機の操縦及び製作を習得し大正六年第一回卒業生首席として飛行士免状を授与せらる爾来技愈々熟し出藍の誉高く東京大阪間最初の郵便飛行同区間周航の六百三十哩飛行等の競技に優勝し又民間最初の曲技飛行家として其天才的技量を発揮し後輩を指導して多数の優秀な飛行士を養成す大正九年八月二十九日の曲技飛行中空中分解の為愛機恵美号と共に此の地に玉砕す我が航空界の第一人者として称賛を受けたる君は航空界に幾多の大功績を残して遂に逝けり享年僅二十三官民間人今猶ほ惜しまざるはなし建碑に当って其昔を偲ぶ 嗚呼
昭和十五年八月二十九日 男爵 奈良原三次 


ふーん・・・。




家に帰って調べました。
まずはこの揮毫者、
奈良原三次氏。




元は海軍の中技師だった、
奈良原さん。
軍籍を離れた、
明治四十四年(1911)、
自ら設計製作した飛行機、
「奈良原式2号」で、
国産機による飛行を、
所沢飛行場*1で行って成功し、
国産航空機の生みの親となった人。
まだまだ高度は4m、
飛行距離はたった60mでした。
その後、奈良原さんは、
飛行場を稲毛に開設。
なんと場所は今日お参りした、
浅間神社の大鳥居の西側でした。
この頃ここに弟子入りした、
パイロットの練習生が、
この碑の建立者、
伊藤音次郎氏。




伊藤さんは大正四年(1915)に独立し、
同じ稲毛に伊藤飛行機研究所を創立し
大正五年(1916)に自ら製作した飛行機で、
初の民間機東京上空訪問飛行を行います。




大正六年(1917)東京湾を高潮が襲い、
稲毛の施設が壊滅してしまった伊藤は、
翌年、大正七年(1918)に、
ここからすぐ近くの現在の習志野市袖ヶ浦5丁目に、
伊藤飛行機研究所を再建します。
ここに所属した優秀なパイロット、
山縣豊太郎さんが、
師匠の伊藤が初の民間機東京上空飛行を成功した飛行機の二号機で、
大正九年(1920)に曲技飛行の宙返り中に、
翼が一枚ちぎれ落ち、きりもみ、
ここに墜落し、
山縣さんは帰らぬ人となりました。




その死の二十年後・・・、
師匠・伊藤によって、
山縣さんの追悼の為、
建立された碑がこちらです。
揮毫、碑文は、
そのまた師匠の奈良原にお願いしたという訳です。




なんだか縁もゆかりもありませんが、
ちょっと感動しちゃって、
山縣さんの死の87年後に、
彼の冥福を祈る習志野在住のおっさんが一人・・・。
科学技術の小さな進歩の一歩一歩は、
こんな犠牲の上に成り立っているのです。




私、若き日に大好きだったブルハ、
THE BLUE HEARTS
その代表曲「TRAIN−TRAIN」に、
こんな詞があります。




世界中に定められたどんな記念日なんかより、
あなたが生きている今日はどんなに素晴らしいだろう




世界中に建てられてるどんな記念碑なんかより
あなたが生きている今日はどんなに意味があるだろう



大好きな歌詞です。
まったくおっしゃる通りですけど、




でも、記念日や記念碑も
これ、捨てたもんではありませんぜ。
マーシー




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*1:現在の航空公園