日本橋本町のビルの一角に、
こんな史跡の記念碑を発見。
史跡・記念碑のタイトルなるもの、
通常、名称のみだけで、詳細は分からずとも、
一体、大体、何をの記念するものであるかは分かるもの。
「於竹大日如来井戸跡」。
おたけ、誰?大日如来さまの井戸の跡???。
・・・お手上げです。
碑文を簡単にして恒例の日本昔話にしてみます。
昔々ことじゃ、寛永十七年(1640)にのう、
今は山形の庄内から十八で江戸に出て、
大伝馬町の馬込家に奉公した於竹さんは、
何事にも誠実で親切での。
一粒の米や一片の野菜にいたるも、
けして粗末にせんと貧しいものに施したそうじゃ。
だもん、於竹さんのおるお勝手からはいつも後光がさしていたと。
そこに出羽の国の行者の乗蓮さん玄良坊さんがの、
その馬込家を訪問した時にのぅ、
「於竹さんは羽黒山のお告げによると大日如来の化身じゃ。」
というもんだで、馬込家の主人は驚いて、
奉公をやめさせての。 持仏堂を建てて、
出家させ、念仏三昧の道に入れたそうじゃ。
これが江戸市中に拡がってのぅ、
於竹さんを拝もうとする人が沢山集まったんだと。
これは於竹さんが詠んだ歌じゃ。
「手と足はいそがしけれど南無阿弥陀仏
口と心のひまにまかせて」
於竹どんは、延宝八年(1680)に、享年五十八歳でこの世を去った。
時の五代将軍の徳川綱吉のおっかさん、桂昌院はこう歌に詠んだと。
「ありがたや光と共に行く末は
花のうてなに於竹大日」
於竹さんが愛用して、貧しいものが市をなしたと言う、
有名な於竹井戸はここにあったそうじゃ。
昭和四十六年(1971)五月
史蹟 於竹大日如来保存会
「清廉潔白」とはいえ、ただの田舎からの奉公人が、
最高位の仏、大日如来の化身とされて、
今もビルの一角に祀られている(?)ということは凄い奇跡的なこと。
「念仏三昧」って、大日如来の化身の方が、
阿弥陀如来になにを念じていたのかは、ちょっとよく分かりませんが、
おそらくよほど何らかの大きな社会的貢献があったのではないでしょうか。
と、思って、、、
ちょっと調べてみると、ここに辿り着きました。
エピソードの時系列や、
奉公先の家名、没年等はちょっと異なりますが、
どうやら当時のプロデューサー的な山師っぼい山伏に、
ちょっと利用された感がありますが、
しかし「お竹さんブーム」があったことは史実で、
後の世の研究者も多くいるようです。
→ 【江戸三十三観音第五番】新高野山 大安楽寺
→ 【御府内八十八ヶ所第六番】五大山 不動院
碑文・題字筆、どこかでお見かけした独特の書体だと思ったら、
この二つのお寺の住職を兼務する和尚様の筆でした。
感謝極楽、不平地獄。
ごもっともでございます。