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本日午後二度目の中之島に訪問の途中、
「福沢諭吉生誕の地150m先」
・・・の、案内を見かけたもので、
顧客訪問後に無理矢理ホンチョクをつき合せて、
ちょっと立ち寄ってみました。
嗚呼、ここが福沢諭吉が、
下級藩士の子として生まれた、
中津藩の蔵屋敷の跡ですか・・・。
なるほどここからならば、
適塾には歩いて通えますね。
そうそう、話は変わりますが、
こちらのブログでは、
「終焉の地」の過去記事は何本もあるものの、
「誕生の地」は慈覚大師円仁のみでした。
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幕末明治の大教育家福澤諭吉先生こゝ
に生る。時に天保五年十二月十二日(西暦一
八三五年一月十日)。こゝは舊豊前中津藩
倉屋敷の長屋跡である。先生の父百助は
一面に於いて、経學者、詩文家であった
が、然も、理財の道に精通した循吏であ
って、金穀會計の俗役に奔命して其生涯
を終った人である。彼は妻お順が、大き
な瘠せて骨太な五番目の子を産んだ時
「これはよい子だ、大きくなったら寺へ
遣って坊主にする」と語ったと傳へられ
てゐる。封建門閥の世に下級士族が其子
をして名を成さしめる道はこれを佛門に
入らしめる以外にはなかったのであらう。
當時に於いて、この子が後年、西洋文明
東道の主人となり、封建的観念形態の打
破に努力するに至る将来を誰が豫見し得
たであらうか。
昭和二十九年(1954)一月 慶應義塾社中建之
題字 小泉信三
撰文 高橋誠一郎
書 西川寧
その左側には昭和六十年(1985)一月十日に、
福澤諭吉生誕地顕彰会建立の、
当時の慶應義塾長・石川忠雄氏の書、
学問のすすめの冒頭、
「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ 人ノ下ニ人ヲ造ラズ」
を、刻んだ碑があります。
でもこの文言はとても有名ですが、
実はこの部分はカッコの中に囲われていて、
その語尾には、"と云えり。"が付いています。
つまり現代語に訳すれば、
"といわれている"であって、
けして本人の主張そのものではないのです。
どうかその後を読んでみてください。
おそらくこの文言とは、
相反するの主張をしていることが分かります。
さて福沢諭吉といえば、
実は幼少の頃から、
月代を剃るのを嫌がり、
母親が酒を飲ますことで、
それを我慢させたそうで、
ガキの頃から筋金入りの×アルコール依存症◯大酒飲み。
(未成年飲酒禁止法は大正十一年(1922)の制定です。)
適塾時代には禁酒を試みたものの、
親友に煙草を勧められ喫煙者にもなってしまい、
結局は禁酒にも失敗し、
「一箇月の大馬鹿をして酒と烟草と両刀遣いに成り果て」
・・・たそうだとか。
晩年、医師に断酒をするよう指導されると、
「麦酒は酒ではない」としてビールを飲み続け、
最期は二度目の脳溢血で亡くなりました。
当時の一部の新聞紙上には、
「ホラを吹くザワ、嘘を言う吉」
・・・などと揶揄されたそうですけど、
これらのエピソードは、
とても面白そうなオサーンです。