祭神 底筒之男命・中筒之男命・表筒之男命(住吉三柱)
息長足姫命(神功皇后)、東照御親命(徳川家康)
104-0051 中央区佃1-1-14
公式サイト http://www.sumiyoshijinja.or.jp/
午後は豊洲の顧客に訪問後、
とある会社の役員さんが退任後、
違う会社の役員になると聞き、
月島の会社に伺ってみました。
これは二年前にも同様に訪問したんですけど、
その時同様、今回も空振りに終わりました。
その後、気を取り直す為、
月島、佃をちょいとぶらりとしてみました。
民家の庭先にこんな手押しの井戸が現存していたり、
朱塗りの佃小橋上から見る、
佃の高層マンション。
この橋の下には、住吉神社の本祭りの為の、
大幟柱と抱木が理設されています。
要するに空気中よりも水中の方が、
木は腐らないということでしょう。
さてその住吉神社にお参りしてみます。
隅田川の畔にある継ぎ接ぎのような、
この青銅の鳥居が一の鳥居なんでしょうか。
私の拙い知識では、
徳川家康が江戸に摂津の漁師を招きいれ、
彼らがここに、摂津国一ノ宮の、
住吉大社を分請したものであると思っていました。
しかしどうやらそれは違いました。
神功皇后が三韓征伐の帰途に、
摂津国西成郡田蓑島(現 大阪市西淀川区佃)に、
住吉三柱を祀ったそうです。
(住吉区の住吉大社も同様です。)
これが大坂のこの地に田蓑神社として起こります。
その後、住吉神社と名を変えますが、
この蓑島と徳川家康公が深い関わりを持ち、
家康自ら、漁業の傍らに田も作れという命を受け、
村名を「田蓑」から「佃」へと改めました。
この時、旧村名を残す為、
神社の名を住吉神社から田蓑神社に戻したそうです。
さらにその後、徳川家康公が江戸を開く際に、
この摂津国佃の漁夫三十三人と、
田蓑神社の神職が、この神社の祭神を分霊して江戸に出て、
幕府の命により干潟を賜って築島しました。
それを故郷の名をとって佃島として、
現在のこの地に正保三年(1646)、
住吉三神に神功皇后と徳川家康を合祀し佃住吉神社と致しました。
(江戸に出た神職さんと同じ姓の方が現在もこちらの神職さん。すごい。)
う〜ん、長くなっちゃいましたが、
ご理解頂けましたでしょうか。
さて境内に入るとまず右手には、
幾度か再建、改築されている欅材切妻造の水盤舎と、
天保十二年(1841)寄進の石造りの水盤。
境内の鳥居には、
真っ白な下地に青い文字の扁額が掛かります。
これ、なんと陶製のもので、
明治十五年(1882)に寄進されたそうですが、
揮毫は有栖川宮幟仁親王の筆によるものです。
(お世辞にも上手い字とは言えませんけど・・・。)
住吉造を横から配するような拝殿です。
高層マンションの下に、
神々の社は、今も力強く存在します。
小さな境内ながら、実に数多い境内社。
写真の、文政五年(1822)に奉祀され、
天保九年(1838)に佃小橋の元にあった、
竜王弁財天の祠も合祀されてなった、
龍神社(竜王弁財天)を始め、
明治二年奉祀(1869)の入船稲荷神社、
文久三年奉祀(1863)の船魂神社、
疫神社、疱瘡神社、古河神社と盛りだくさん。
すべてに二拝二拍一拝してご挨拶していたら、
まるでコメツキバッタのようになってしまいます。(汗)
鰹塚や、水谷緑亭句碑など、
他の見所も沢山です。
おやっ、ひっそりと、
今時珍しい、金次郎さんの石像が・・・。
以前にも何度か書いておりますが、
私はどうもこの像に、勤勉的な教訓よりも、
元祖「ながら族」記念碑として見てしまいます・・・。(笑)
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