宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来
678-0239 赤穂市加里屋1992
公式サイト http://kagakuji.jimdo.com/
→ 高野山 金剛峯寺〜浅野長矩及び赤穂義士墓 その二〜
→ 萬松山 泉岳寺〜浅野長矩及び赤穂義士墓 その一・大石内蔵助良雄像 その一〜
→ 大石良雄他十六人忠烈之跡
→ 浅野内匠頭終焉之地
→ 皇居東御苑(松之廊下跡)
→ 赤穂浪士討ち入りの日
→ 「赤穂」関連の記事
→ 「忠臣蔵」関連の記事
さてさてそんな訳で、
播州赤穂駅にやって参りました。
なぜわざわざ「播州」を冠しているかといえば、
他に先に「赤穂(あかほ)駅」があったからだそうで、
意外にもJRの駅で、
「〜州」が付く駅はここだけとか。
駅を降りればご覧の通り、
「忠臣蔵」と「赤穂義士」に溢れています。
つーか、それしかあーりません。
駅にある観光情報センターも、
「忠臣蔵」と「塩」ばかーり。
なんの下調べもして来なかったので、
こちらで地図をもらい、
いろいろと目的地を定めました。
駅二階から見た赤穂の街並み。
なぜか「忠臣蔵」劇中の、
「この田舎大名がぁ〜。」という
吉良の台詞が脳内にリフレイン。
JR播州赤穂駅の駅前広場。
ここに討ち入りの装束の、
大石内蔵助良雄像がありました。
赤穂城方面を目指して進むと、
ぽっかりと小さな広場があり、
この井戸がありました。
中を覗き込むと、
復元された模擬のもののようで、
正直言ってちゃちぃです。
浅野内匠頭による刃傷事件の、
第一報を知らせる為、
元禄十四年(1701)年三月十四日の夕刻に
赤穂藩士・早水藤左衛門、萱野三平の二人が、
早籠で江戸を出発。
百五十五里(約620km)の道のりを、
四昼夜半で到着した両名は、
大石内蔵助邸へ向かう前に、
この井戸の水を飲んで、
一息ついたといわれ、
「息継ぎ井戸」と呼ばれています。
つーかさぁ・・・、
折角死ぬ思いで急いで来たのに、
こんな目と鼻の先でわざわざ休むかっ?!
この「いきつぎ広場」に併せてあるのが、
この高さ4mの時計台。
時計台の三方には、赤穂市立歴史博物館所蔵の、
忠臣蔵の浮世絵が複写されています。
これが午前九時から午後八時までの毎正時、
太鼓の音とともに時計台の扉が開き、
からくり人形による忠臣蔵の一幕が始まります。
松の廊下事件から早籠、討入達成まで
約三分間の忠臣蔵の小劇場。
さて浅野家と義士の菩提寺、
台雲山・花岳寺に到着しました。
赤穂藩は浅野家断絶の後、
永井家、森家が藩主となりますが、
それぞれここ花岳寺を菩提寺と定めました。
この山門は元は赤穂城の、
塩屋惣門を移築したものです。
山門をくぐると正面本堂の手前には、
この巨大な「二代目大石名残の松」。
大石内蔵助が赤穂を去る時に、
何度も見返していたと言われる松なんだけど、
この手の誰かにゆかりの樹木に、
二代目とか意味があるのか疑問ですが、
まぁ、それはそれで観光資源っていうことで。。。
またその松の東にあるのが「鳴らずの鐘」。
赤穂浅野家二代の藩主の長友が、
その父の長直の菩提の為に、
奉納した鐘なんですが、
元禄十六年(1703)二月四日、
赤穂浪士四十六士が、
江戸で切腹したという報が赤穂に届き、
悲しみに包まれた赤穂町民が、
花岳寺に集まり鐘を撞いて撞きまくり、
以来、鐘が音韻を失ってしまったそうで、
五十年後に改鋳をしたものが今の鐘とか。。
二重屋根・扇垂木・伽藍造りの立派な本堂。
天井の大額には赤穂最大の画人といわれる、
法橋義信の筆「竹に虎」が大迫力。
本堂から振り返ると、
休憩所を兼ねたような「千手堂」があり、
ここに樹齢310年で枯死した、
「初代大石名残の松」の幹が置かれています。
でもここ千手堂なのに、
なんで本尊が聖観音なんだろう?
さて参拝料を奉納し、
宝物殿や墓所のある境内奥に参ります。
まずは浅野長矩及び赤穂義士墓所。
赤穂浪士三十七回忌にの元文四年(1739)に、
有志によりこの義士墓が建立されました。
中央に浅野内匠頭長矩、
左右に大石内蔵助良雄・主税良金の親子。
ぐるりと他の義士の墓石が並びます。
それぞれ遺骸は江戸の泉岳寺に埋葬されたので、
こちらは遺髪の埋葬のみだそうです。
ずらりと並ぶ四十七士の墓石。
切腹をした義士には戒名に「刃」があると、
スピーカで説明が流れており、
墓所南東角の墓石に「刃」がなく、
これは切腹をせずに天寿を全うした、
寺坂吉右衛門の墓石である。
と、解説されていましたけど、
ちょっと待ったー!!!!!
まずその墓石は他の墓石と材質も全く同じです。
泉岳寺の寺坂の墓石は、
遺骸のない供養墓ですが、
慶応年間に入ってから建てられたもので、
材質も明らかに異なり、
戒名は「遂道退身信士」となっています。
また延享四年(1747)に、
83歳で亡くなり麻布の曹渓寺に葬られた、
墓の戒名は「節岩了貞信士」。
こちらの戒名はよく読み取れませんが、
明らかにそのどちらとも異なります。
また元文四年(1739)当時には、
寺坂はまだ74歳で存命しています。
果たしてコレ本当に寺坂の墓なんだろうか。
浅野長矩及び赤穂義士墓所の裏の、
義士宝物館・義士木像堂は撮影禁止。
また墓所と本堂の間に、
「浅野家霊廟」があります。
また北西には森家代々の墓所があります。
その森家の右隣に大石家先祖墓所がありますが、
大石の子孫は安芸国広島藩に仕えるですが、
ここまで墓参りが出来たのだろうか。
この隣の「義士家族墓」も、
義士の遺族は各地にバラバラになったので、
一体どう管理していたのだろう。
さて境内北東、浅野家三代の墓所です。
一番奥は笠間藩主「浅野長重公之墓」。
領地の真壁・伝正寺に葬られますが、
子の長直の代に赤穂へ国替えとなり、
ここにも墓が建てられました。
そしてその手前左は、
その初代赤穂藩主の、
「浅野長直公之墓」。
さらにその手前に長直の長男で、
内匠頭長矩、大学長広の父、
「浅野長友公之墓」。
浅野家は長矩の代で断絶した後、
弟、大学が旗本となり再興しますが、
禄高はたったの五百石*1で、
所領は安房国だったそうですから、
こちらの墓を直接管理することは、
出来なかったはずです。
あの赤穂事件があってこそ、
永井家、森家が藩主となっても、
そのまま手厚く供養されて来たのでしょう。
*1:浅野宗家からも300石を支給され続けた。