吉良邸跡 〜墨田区立本所松坂町公園〜

130-0026 墨田区両国3-13-29





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→ 高野山金剛峯寺〜浅野長矩及び赤穂義士墓その二〜
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【終焉の地】シリーズ
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昨日、大阪で夕方に予定があり、
今朝は両国で野暮用がありますもので、
珍しく早朝の上りの、
東海道新幹線で東京に戻りました。
いつもの朝の東京駅同様に、
なんの予約もしなかったんですが、
始発を狙っていたもの、
なんと一時間先の、
のぞみ号の指定席も取れず、
止むを得ずひかり号の、
自由席に乗り込みました。
しかしこれがまた大混雑で、
通路に人がビッシリ立つほどで、
えらい遅いわ、
扉が開いたままで寒いわ、
トイレにも行けないわで、
もうクタクタのグロッキー。
次に朝帰る時は前の日に予約しよう。
(;ω;)




吉良邸跡(本所松坂町公園)とその案内  赤穂義士遺蹟 吉良邸跡碑





さてどうにか両国に到着しました。
両国には弊社の関連団体があるもので、
車では度々訪れておりますが、
電車で来たのはとても久しぶり。
先日、赤穂を探訪し、
赤穂義士関連の史蹟は、
ほぼ紹介したつもりでしたが、
肝心のこちらがまだでした。
あの赤穂義士が討ち入った、
吉良邸跡の一部です。
つまりは吉良上野介義央終焉の地。
昭和九年(1934)、
地元両国三丁目町会有志が発起人となり、
「吉良公御首級洗いの井戸」
を、中心に土地を購入して、
東京市に寄付し、
後の昭和二十五年(1950)に、
墨田区に移管されました。





吉良邸見取図と本所松坂町公園の位置  現在の表門・裏門の様子




吉良家上屋敷は本当はとても広大で、
東西七十三間(約132m).
南北三十四間(約62m)に及び、
面積は二千五百五十坪(約8400㎡)ありましたが、
現在、本所松坂町公園になっているのは、
およそ北側のの部分です。
四十七士が二手に分かれて、
実際に討ち入りを実行した、
表門、裏門も現在はご覧の通り、
どちらもマンションになっています。




公園内と吉良上野介義央像  みしるし洗いの井戸




公園内の一番北の目立つ場所に、
この平成二十二年(2010)建立の、
吉良上野介義央の座像があります。
材質が銅ではないので、
銅像】カテゴリーには入れませんが、
オリジナルは吉良の菩提寺である、
西尾市吉良町の華蔵寺にある寄木像で、
吉良が五十歳の時に、
自ら造らせたものとか。
ワタシといくつも違わないけど、
かなり老けているねぇ。
御首級洗いの井戸もあるけど、
これホント井戸として生きているのかな?
ただ「吉良首洗いの井戸」とはせず、
「吉良公御首級洗いの井戸」とする辺り、
この吉良座像といい、
両国の方々、吉良邸保存会や、
町会の「吉良贔屓」を感じます。
公式リーフレットにも、
吉良がいかに名君であったか、
かなり長い文章で説明しています。





元禄市の案内  吉良家家臣二十士碑




毎年恒例の「元禄市」では、
「義士祭」と「吉良祭」を、
日を替えて行うようです。
園内には討ち入りで命を落とした、
吉良家家臣二十士の、
俗名を記した供養碑もあります。




松坂稲荷




また園内南西の角に祀られているのは、
松坂稲荷大明神
兼春稲荷と上野稲荷を合祀したものです。
元々兼春稲荷は徳川家入国の頃に、
松坂町にあったそうですが、
討ち入り後に他所清めの為に遷宮され、
上野稲荷に合祀されますが、
それを公園開園時に再び遷したものとか。
現代だったらすぐに”政教分離”で、
騒がれてしまうことでしょう。