西國三十三所順打ち巡礼記

旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

藤崎堀込貝塚 その二

千葉県指定史跡
275-0017 習志野市藤崎1-13



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→ 「貝塚」関連の記事





東金(御成)街道の案内



        
この東金御成街道を下りまして、
習志野市内の自宅すぐ近くまで戻りました。
折角なので、最寄の貝塚にも立ち寄ります。
この案内板にある御成街道成立以前の名残り、
藤崎古道を通って見ましょう。





藤崎古道下  鬱蒼とした藤崎古道
藤崎古道の小祠  上から見た藤崎古道



晴れた日でも薄暗い
この鬱蒼とした竹林にある藤崎古道。
ここにもやはり祈りの対象である、
小祠が祀られているのがとても印象的。




藤崎堀込貝塚




さてその藤崎古道の上にある、
畑の真ん中に浮かぶような、
藤崎堀込貝塚です。




藤崎堀込貝塚の案内板





さてこの藤崎堀込貝塚は、
標高約21m、幅300mほどの
台地上の一角に位置しています。
貝塚は南北80.5m、東西60mの規模で、
西側に開口部をもつ馬蹄形貝塚ですが、
現代周辺一帯は私有地の畑になっています。
この貝塚が形成された時代には、
このすぐ下の谷の菊田川まで、
海が入り込んでいたと考えられています。
過去3回発掘調査が実施されており、
1回目は昭和四十年(1965)、
千葉大学地理学教室により、
地質学的な研究を目的としたもの。
2回目は昭和四十一年(1966)、
立正大学考古学研究室により、
地形測量とボーリング調査が行われ、
これによりこの貝塚が、
馬蹄形であることが判明しました。
3回目は昭和五十一年(1976)、
習志野市教育委員会により
貝塚の様相を知る為に、
本格的な発掘調査が実施され、
その調査の結果この貝塚は、
約4,000年前の、
縄文時代後期初頭から、
小規模な形成が始まって、
縄文時代後期前半から、
後期中葉にかけて、
約500年間に渡って、
大規模に形成されたことが判りました。
貝塚の周辺からは縄文時代中期の、
遺物も出土しており、
竪穴式住居跡もあったことから、
縄文中期から人々がこの遺跡で、
生活を営み始めたことも推定されています。
多量の縄文時代後期の土器や石器のほかに、
貝層内から多量の動物の骨が出土。
貝層はイボキサゴが主体で、
他にオキアサリ、ハマグリ等が見られます。
魚骨は、マイワシ・イシダイ・マアジ・サバ、
また淡水魚のコイなど、
獣骨では、ニホンジカ、カエル、
鳥類などが見られるとか。
この貝塚は、東京湾東岸に見られる、
典型的な馬蹄形貝塚の一つですが。
都市部にこのような貝塚が残っている点が、
大変貴重なケースなんだとか...。




浅間神社の鳥居  浅間神社(富士塚)



馬蹄形の中心部には、
天保四年(1833)に、
富士山のものと思われる、
火山性溶岩が運び積まれた
富士塚が造立されていて、
浅間神社として祀られています。
封建時代のこの地の住人達は、
この貝塚の中心を、
一体どう捉えていたのでしょうか。




地表の貝殼  土器の破片




私有地の畑の表面には、
無数の貝殻が散らばっておりますが、
この辺りでは明治・大正・昭和にかけて、
肥料として貝殻を撒くことが流行したそうで、
一概に貝塚のものとは断定出来ません。
しかし土器の破片のようなものは、
すぐに見付け出すことが出来ます。




藤崎堀込貝塚から幕張新都心を望む




海が遠くなりました現代ですが、
ここから微かに幕張海岸近くの、
幕張新都心のビル群が見えます。



走行距離 34.96km
平均時速 18.4km/h
最高速度 42.9km/h
走行時間 1:53 33


ほんのささやかな自転車散歩で、
距離は僅かな移動でしたが、
五千年の歴史を遡る悠久の旅を、
心ゆくまで楽しみました。