宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
153-0061 目黒区中目黒5-24-53
昨日はタヤパンと目黒の得意先に訪問し、
大円寺にお参りしました。
今日は偶然にもジャラオとまた、
他の目黒の得意先に伺ったので、
その近くのこの祐天寺にお参りしてみました。
駒沢通り沿いにある祐天寺。
祐天寺駅や目黒区祐天寺という地名もありますが、
その地名はお寺から駒沢通りを隔てた北側になり、
当のこのお寺は実は「中目黒」という住所にあります。
開山はかのビックネーム、
増上寺三十六世、祐天上人とされていますが、
実は享保三年(1718)に祐天が亡くなった後に、
その庵の跡に、弟子の祐海が廟堂として建立したお寺であり、
祐天を開山として数え、祐海はを二世としたそうです。
さて、祐天さんこと字は愚心、号は明蓮社顕誉。
ご存知ない方の為、手身近に説明すると、
江戸時代を代表するゴーストバスター(?)。
浄土宗の僧でありながら、
密教僧顔負けの呪術ぶり。
そもそもその才能の開花は、
暗愚であると最初に弟子入りした師に破門され、
成田山新勝寺に参篭して、
直接不動尊より剣を喉に刺し込まれて、
深い智慧を授かったという伝説に彩られていますから、
密教と念仏の習合であるとも言えなくはありません。
祐天は五代綱吉、その母桂昌院、
そして六代家宣の篤い帰依を受けた祐天さん。
伝通院の住持等を歴任した後、
正徳元年(1711)に増上寺三十六世となって大僧正になりました。
ここは晩年の草庵であり、
享保三年(1718)に82歳で入寂した地なのです。
祐天上人を一躍有名にしたのは、
三遊亭円朝の怪談噺や鶴屋南北の歌舞伎などで知られる「真景累ヶ淵」。
この中で累一族を成仏させた上人は、
日本を代表する呪術師となりました。
この仁王門、阿吽の仁王尊は共に、
享保二十年(1735)綱吉の娘、竹姫の寄進。
仁王は法橋石見作だそうです。
この累(かさね)塚は、大正十五年(1926)、
歌舞伎の六世・尾上梅幸、
十五世・市村羽左衛門、
五世・清元延寿太夫等が施主となって、
累一族の慰霊と、祐天上人への威徳に浴する為建立されました。
この梵鐘は、六代家宣の十七回忌に正室・天英院が、
享保十三年(1728)に寄進したもの。
うん、祐天は本当に徳川家から篤い帰依を受けていたのです。
本堂左手にあるこの阿弥陀堂も、
仁王門と同じく竹姫の寄進。
ここにこの寺の本尊、阿弥陀如来が祀られています。
とても美しい如来を間近に拝することが出来ます。
本堂は現在改築中。
こんなバリケードに覆われていました。
覗き見た、本堂左手の仏塔には、
「真景累ヶ淵」の場面なのか、こんな絵画がありました。
改築中の本堂の中心には、本尊・阿弥陀如来ではなく、
「木像祐天上人坐像」が安置されているのだそうです。
道路を隔てた、墓地の中心に、
この寺の主人公(?)、祐天上人は眠ります。
大きくて立派な卵塔です。
その上人の墓のすぐ手前左側、
「柳原一位局之墓」があります。
墓石には「従一位勲一等柳原愛子墓」。
その右隣には「柳原家」の墓がありますが、
この愛子(なるこ)さんの墓が独立しているのは、
明治天皇の側室であり、
大正天皇の母君であられるから・・・。
つまりは今上天皇の曾祖母のお墓なのです。
柳原愛子様は、大正天皇臨終の際に、
貞明皇后の特別の配慮によって、
死の直前の枕元でお別れをしたという逸話があります。
47歳で早世してしまう、天皇である息子との最後の別れ。
さぞやお辛い別れであったことでしょう。