西國三十三所順打ち巡礼記

旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

金龍山 光堂院 専稱寺 (間宮林蔵墓 その二) ~小貝川サイクリング②~

茨城法然上人御霊場第二十番
宗派 浄土宗
本尊 阿弥陀如来
300-2335  つくばみらい市上平柳5



間宮林蔵墓 その一】






⇩ ⇩ ⇩




間宮林蔵記念館・生家・墓の案内



さて岡堰を渡り、
小貝川の東岸を北上して、
豊橋の袂を右折し、
間宮林蔵記念館(生家)、
菩提寺(墓)を目指します。




専称寺  専称寺門前の案内



まずは間宮家の菩提寺である、
専称寺にやって来ました。
江戸の墓のある本立院は、
日蓮宗の寺院ですが、
こちらは浄土宗のお寺です。



本堂



創建は弘治二年(1556)。
間宮林蔵寺子屋の師とされる、
中興第二十五世伯栄の時代に、
この本堂や山門、鐘楼が建立されたそうですが、
本堂はかなり改修された跡が見えます。




間宮林蔵墓地  間宮林蔵立墓の説明書き



本堂手前左に小さな丘があり、
これが間宮林蔵と、
その両親の墓地になります。




「間宮先生埋骨之処」顕彰碑  間宮先生埋骨之処



まず正面には、
明治四十三年(1910)に、
志賀重昻らの仲介で建立された
「間宮先生埋骨之処」の顕彰碑。。

間宮先生埋骨之處

是爲間宮林藏先生埋骨之處於乎先生心存經國學主實用欲窮靺鞨之奥
獲九譯蕃夷爲嚮導駕刳舟渡絶海上亞細亞大陸發明樺太之爲離島以決
前人未決之疑進入滿洲應接淸吏俾其知國威不可侮而還以幕府一胥吏
而其名大顯于泰西書册洵可謂豪傑之士不負所學者也先生以弘化元年
二月二十六日歿于江戸後人納齒于江戸深川本立院葬骨于郷里常州
波郡上平柳村專稱寺而其墓石不能一尺五寸蓋當時有制先生之父以一
百姓墓石不獲過尺寸故先生之墓亦傚之云後六十年俄羅斯構難 朝廷
追賞先生之功詔贈正五位郷之子弟以爲榮也胥謀建一大碑于墓側來徴
文於予予曰不亦善乎先生之功烈愈顯而先生之墓石愈小也但同郷之士
患歳月之久而遺蹟或歸湮滅欲建大碑以傳永遠其崇敬先輩而厚于義是
不可以不録也乃爲撮其梗概叙之如此時明治四十三年四月也
 正二位勳一等侯爵鍋島直大題 正五位志賀重昂譔 北條時雨書


間宮林蔵墓と両親墓
間宮林蔵墓  間宮林蔵両親墓



顕彰碑の裏手にひっそりと、
間宮林蔵墓とその両親の墓があります。
この墓は林蔵29歳の、
文化五年(1808)に、
樺太出発を前に死を覚悟し、
自ら建てたものですが、
後に江戸から分骨されて、
遺骨も埋葬されています。
当時まだ林蔵は百姓身分であったので、
とても小さく質素な墓石。
間宮林蔵墓」と記された、
墓石正面の文字は、
林蔵の自筆であると伝わります。
右隣の両親の墓も、
ほぼ同じ大きさで、
同じ形式のものです。
小貝川の改修により、
両墓石共に当初あった場所から、
10mほど手前に移動しています。



間宮林蔵墓裏・右側面


林蔵の墓石の、
右側面には、
「林誉妙慶信女」、
左側面には、
「養誉善生信女」と、
二人の妻らしき女性の戒名が、
刻まれているそうですが、
肉眼では読み取ることは、
全く不可能でした。
ほぼ読めませんが、
こちらの過去帳では、
林蔵の戒名は、
「威徳院殿巍譽光念神祐大居士」
だそうですが、
もちろん江戸の墓の、
「顕実院宗円日成大居士」
とは違うものですが、
生前の百姓身分の時に、
付けられたものではないので、
死後しばらくして、
付けられたものでしょう。







⇩ ⇩ ⇩

⇩ ⇩ ⇩

⇩ ⇩ ⇩

⇩ ⇩ ⇩