西國三十三所順打ち巡礼記

旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】

青砥神社 〜葛西城跡〜

青戸・白鳥 総鎮守
祭神 伊弉諾尊猿田彦大神品陀和氣命建御名方命
    宇迦之御魂神・菅原道真公・高御産巣日神罔象女命
125-0062 葛飾区青戸7-34-30

別当 真言宗豊山派 両鎮山 慈眼院 観音寺
125-0062 葛飾区青戸7-33-3



二年前にもちょこっと触れましたが、
我が業界に勤め「管理」する側にいる限り、
必ず取得せねばならない国家資格がありまして、
当然私もこれを持っている訳ですが、
この有資格者で、業務につく者は、
法律の定めるところにより、
二年に一度、一日掛かりの講習を受講する義務があります。
ただこの講習、特に試験がある訳でもなく、
ただ一日ぼーっ聴いていればよいというもの。
原則、自宅の最寄の講習会場で、
直行直帰が認められているので、
なんだかウキウキしてしまう定例行事です。



さて二年前は錦糸町を選び受講しました。
今年は知らぬ間に、ホワイティ氏が勝手に選び申し込んでいたようで、
なぜか習志野市在住の私が、葛飾区青戸の会館です。



ホワイティ氏はどうも私が千住大橋在住というイメージが強いようです。
私が千住大橋に住んでいたのはもう七年も前のことです。





荒川の堤防が決壊したら・・・



とかなんとか言いながら、
京成電車の乗り継ぎ良ければ、
京成大久保から快速電車でたった30分の青砥駅
会館まで歩く道にあった電柱です。
なんと荒川が氾濫すると、
この印の3mの高さまで、
水が溢れる危険があるとか・・・。
おっかねえなぁ〜。




葛西城の説明と出土品




講習の始まる一時間も前に会館に到着してしまいました。
受付を済まし、エントランスをうろうろしていると、
その隅っこにこの葛西城の紹介文と出土品の展示がありました。




→ 葛西城 - Wikipedia




「葛西」といえば、現在では江戸川区の地名で、
ネズミの王国の西隣の埋立地にそう名づけられておりますが、
元々は「葛飾の西」という意味で、葛飾の南部をさします。
またこの「葛飾」とは、やはり現代の「葛飾区」ではなく、
旧の下総国武蔵国にあった大きな「郡」。
現代でいえば、北は埼玉県栗橋町茨城県古河市から
西は墨田区江東区をも含み、
東は千葉県船橋市白井市の一部までを指す広大な地域です。




さて葛西城跡、どうやら今は何も残っていないようですが、
まだまだ時間が余っているのでお散歩してみました。




→ この周辺の地図(本丸のあった場所)




さてこのリンクの地図が現在の葛西城の場所になります。
中心地に本丸があったと推定されていますが、
ご覧の通り、環七のど真ん中です。




御殿山公園 葛西城跡公園




環七に分断され、西を「御殿山公園」、
東を「葛西城跡公園」とし、
わずかながら緑地化しています。



→ 葛西城 - Wikipedia



このウィキの記事と、
ここや会館にあった案内板を要約すると、
この葛西城。築城者、年代ともに不明ですが、
名の示す通り、葛西氏が鎌倉期に築城したのではないかと推定されています。
戦国期に後北条氏支配下となり、
北条氏滅亡とともに、
天正十八年(1590)小田原征伐の際に落城しますが、
徳川家が城跡を「青戸御殿」として利用します。
それで西側の公園が「御殿山」なんです。
昭和四十七年(1972)に環七工事の際に、
発掘調査がなされて、様々な遺物が発掘されたものの、
当時はいけいけどんどん工事な時代。
保存はされず埋め戻されてしまったとか。



青砥藤綱城跡の碑




御殿山公園には「青砥藤綱城跡」と記された碑があります。
正応元年(1288)この地を領していた地名の由来である、
青戸二郎重茂が葛西氏の代官として、
奥州平泉の中尊寺を訪れた記録があるそうで、
これから転じてか、「アオト」つながりで、
青砥藤綱の邸宅であるという説があるそうで、
この碑が建てられたようです。



→ 青砥藤綱 - Wikipedia



どうもこの説「眉唾」らしいんですけど、
京成電鉄の駅が「青砥」であって、
町名の「青戸」ではないのはこの説に由来するとか。



おやっ、この近くの町内案内板には、
その「青砥」と名がつく神社があるようです。
これは、この辺りの真偽を確かめるヒントがあるかもしれません。
前置きが長くなりましたが、ここからが本題。
小走りで、スキップして、早速お参りして来ました。




青砥神社




なかなか重厚な雰囲気を持つ立派な神社です。
鳥居左手にあった由緒の石碑を要約します。



元々この神社は、葛西城落城の十四年前の天正四年(1576)に、
猿田彦大神(白鬚)、建御名方命(諏訪)、宇迦之御魂神(稲荷)を勧請し、
「白鬚神社」と称していたそうです。
その頃は「三社明神」とも別称されていたとか。
現在の「青砥神社」となったのは、
なんとつい最近の昭和十八年(1943)のこと。
同じ青戸町内の白山神社(伊弉諾尊)を合祀した際に、
現在の青砥神社に改称したとか。
おそらくちょうどその頃が、葛西城跡が、
青砥藤綱の邸宅である説が強く支持されていた年代です。
おそらく、なんてことはなく、
駅名と同じく重みのある「青砥」になったのかもしれません。
さて「青砥神社」はその後も合祀を繰り返し、
現在のように主な祭神だけでも八柱となりました。
神様オールスターの、いやいやとってもおめでたい神社です。





拝殿




なんと天正七年(1579)の改築という、
都内では珍しいほどの歴史を持つ拝殿と本殿ですが、
「老朽甚だしく」昭和三十六年(1961)に増改築したものだって。
どこまでオリジナル部分がどこで、どう残っているのか、
見た目では、まったく想像は不可能でした。



狛犬(左・吽形) 狛犬(右・阿形)



なかなか立派な狛犬ですが、
左の吽形は、お顔と前足の一部が削れるように損傷しています。
本殿・拝殿が戦災を受けなかったとすると、
いつの時代のどんな理由の損傷なんだろう。
台座が新しい理由も不明です。




別当・両鎮山観音寺



お隣には別当であったであろう真言宗豊山派の、
両鎮山慈眼院観音寺さんがありますが、
そろそろ戻らなければ、
講習の開始時間に間に合いません。





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