本勝山 長胤寺

宗派 日蓮宗
本尊 ?
262-0044 千葉市花見川区長作町229



長男を幕張の大学に送る



明日が運動会の代休の次男は、
義母と二人でいつもの九十九里へと一泊で出掛けました。
長男は塾の模試を受けるため、
私は彼を車で幕張の大学に送迎します。



長胤寺 山門下



朝、長男を無事に送り届けた帰り道、
幕張から武石を通り抜けた後に、
旧・千葉郡実籾村(現・習志野市実籾)の隣村、
旧・千葉郡長作村(現・千葉市花見川区長作町)に、
この辺りには珍しい日蓮宗の寺があることを思い出して、
ちょっと寄り道してお参りしました。
千葉氏縁の寺院である事は想像に容易い寺号です。



題目碑  山門右手の小祠




参道石段左手には、天明元年(1781)に、
長作村講中により建立された立派な題目碑。
その奥に荒廃した小祠があり、
中には小さな石祠がありますが、
碑文はまったく読み取れず、
何を祀っているものかは不明です。





長胤寺 山門




新緑が映えるなかなかいい雰囲気の山門。





長胤寺本堂と石造日蓮像



これをくぐると、
右手に日蓮さんの石像と、
そしてこの本堂がありました。



このお寺の縁起を、
二つの碑文からまとめ、簡単に書きます。



源頼朝に仕えた千葉氏中興の祖とされる千葉介常胤には七人の男子がいました。
それぞれの後の、長男・千葉介新助胤正、次男・相馬次郎師常、三男・武石三郎胤盛
四男・大須賀四郎胤信、五男・国分五郎胤道、六男・東六郎胤頼です。
そして七男は出家して三井寺に入り、園城寺律静房日胤となります。
三男の胤盛が、承安元年(1171)伝領し武石城を建て武石姓を名乗り、
常胤から四世の孫、武石長胤が、ここ長作を領して後、入道し、
弘長二年(1262)にその館を、寺としたことがこちらの起源。
ただしその頃は真言宗の寺院でした。
上総七里法華弘通の師、日秦上人の法孫、日傳上人によって、
天文十四年(1545)日蓮門下に改宗し、
元禄十四年(1701)には東金の西福寺(現在の最福寺)の末寺となります。



→ 「最福寺」の検索結果一覧 - 旧・元【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】跡地




東金の最福寺は、ここで書いた通り、
現在は法華系の単立寺院ですが、
元々はいろいろとあったという顕本法華宗だったお寺です。
顕本法華宗は、日蓮宗、本門宗と一緒になって日蓮宗となりますが、
戦後に旧顕本法華宗の一部が、
独立して顕本法華宗に戻ったそうですが、
一部は日蓮宗に残り、
また一部は単立を選択しました。





池上管長・日威揮毫の本堂扁額



こちらはその日蓮宗に残った一部で、
この本堂の「本勝山」の扁額の揮毫は、
この日蓮宗管長・池上の貫主、日威さんのものでした。



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