二宮神社 その九 〜 大厄(後厄)厄除・神社編 〜 

祭神 建速須佐之男命稲田比売命大国主命藤原時平
七年祭での役割 父・夫
274-0072 船橋市三山5-20-1




大厄(前厄)厄除 → 神社編お寺編
大厄(本厄)厄除 → 神社編お寺編
二宮神社 その → 
→ 「二宮神社」関連の記事 




スイセン



三連休の最終日、
極寒の「成人の日」の今日、
大厄の後厄、厄除け参り・神社編に、
氏神様にお参りしました。
スイセンが香り高く咲いています。



二宮神社




延喜式内の古社、下総国二宮神社
この神社をここに書くのは、もう九度目のことなので、
もはや書き尽くした感がありますが、
今日は後ほど、少し違った視点から紹介しましょう。




二の鳥居と拝殿



二の鳥居から仰ぎ見た拝殿です。
やはり神社って、気が引き締まるような、
なんとも襟を正したくなる緊張感があります。
うん、おいら、これが大好きです。




成人式の晴れ着姿の女性1  成人式の晴れ着姿の女性2




成人の日ということで、
晴れ着姿の女性が多くお参りしていました。
氏神様へ、無事大人になれた「御礼」と、
これからの人生の「宣誓」といったところか。
とても素晴らしいことです。




二宮神社で頂いたお札と絵馬とお守りとお供物




私も、大厄(本厄)の無事「御礼」と、
今年一年の「宣誓」を済ませました。
今日頂いた、お札と絵馬とお守りとお供物です。




吽形狛犬



さて、過去に書きました通り、
嵯峨天皇の勅願による創建ともいわれるこちらです。
藤原時平の子孫、一族郎党が流れ着いて篤く信仰され、
馬加城主の千葉康胤の嫡子安産祈願によって、
「下総三山の七年祭り」が形成されました。




御手洗の泉の碑  御手洗の泉




しかし、古代の原始信仰は、
スサノオ様でも大国様でも藤原時平でもなく、
すべてはこの境内にある、
「御手洗の泉」(みたらしのいけ)に始まったものと思われます。
今はもうほんの僅かな湧水でしかありませんが、
古来ここから滾々と湧き出た水は、
近隣の村々の田畑を潤し、
まさに恵みの神そのものであったことでしょう。
今は船橋市三山という地名ですが、
かつてここは神の山、「御山」でした。



賽銭箱の社紋




この通り、社紋の六角形の中の紋様は、
千葉氏の曜紋と、この泉の湧き出る様子を、
表現しているに違いありません。
原始、この潤う泉を「母」とし、
これに対する「父」として、
男性性器を模った石器を祀ったようで、
今も神社のご神体にこの石棒が何本か現存しているとか。
この生殖器崇拝が、大国主の別名、八千矛神(やちほこ)や、
大穴牟遅神・大穴持命(おおあなもち)と混同され、
大国主命」が祭神となって、
後にその「ダイコク」の先祖の夫婦神である、
建速須佐之男命」「稲田比売命」が加わったのではないでしょうか。




菊田川の源流1  菊田川の源流2



私が子供の頃には、この源流が、
今の神社の駐車場の場所で、
大きな池となっていて、
地域の住民の憩いの場になっていました。
ザリガニ釣りはここで腕を磨いたものです。



→ 「ザリガニつり」関連の記事




現在はその池も埋め立てられてしまい、
この泉の流れ、菊田川も、
ほとんどが暗渠となって、
住宅街の下を流れています。
この菊田川は、この二宮神社から湧き出て、
七年祭の"叔父"である菊田神社に流れています。




→ 菊田神社〜元・【東京】江戸御府内八十八ヶ所順打ち巡礼記【遍路】〜




菊田神社といえば、藤原時平の子孫、
藤原師経、師長の一族郎党が流れ着いた、
入り江の河口、久久田であって、
彼らはこの川を遡って、
内陸部へと住み、繁栄(?)しました。
そして藤原時平命が祭神に加わります。



通称・三田中の坂  暗渠になっている菊田川




今ではドブ川のような暗渠ですが、
数千年の悠久の歴史の中で、
この細い小川は大地を削り、
今も谷のような形状を残しています。
最も深いのは、この船橋市立三田中学校横の、
通称「三田中の急坂」です。




私のチャリンコ通勤道【NAVITIME】




私が最近自転車で、毎朝晩、息を切らしている、
このJR津田沼駅までの下り・上り坂も、
実はこの菊田川によって形成された地形です。



いわば、神がもたらした坂道で、
毎日鍛えさせて頂いる訳であります。




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